2009/08/20

太陽を曳く馬 / 高村薫

太陽を曳く馬〈上〉 太陽を曳く馬〈下〉
 高村薫女史の三部作が完結しました。計6冊、2390頁、7年の歳月を費し、20世紀の日本を貫いて21世紀の現在に至る壮大・重厚・難解なサーガでした。先ずは高村薫女史に心から「ご苦労様でした」と申し上げます。
 正直に告白すると、読後は呆然自失状態でした。そしてその後数日間は様々な思いが脳裏をよぎっては消え、なかなか考えがまとまらず、前二作を折りに触れ読み返したりしていました。

 本作もやはり前作「新リア王」と同じく、文章は固く長く時として難解であり容易な流し読みを決して許さない厳格さに満ちています。それに加えて五人の曹洞宗僧侶が真に「禅問答」を繰り広げるため、告訴状に関する取調べがすぐに観念論宗教論に入れ替わり、形而下と形而上の往復がジェットコースターのような目まぐるしさで繰り返されます。

 とは言え、前作「新リア王」に比すれば意外なほど本作は読み易くなっています。その理由としては、高村作品の中でも最も人気の高い合田雄一郎刑事を主人公級に起用し、一応警察小説としてのストーリーを設定した点が一番大きいと思います。彼が難解な現代美術や仏教哲学を語る上での緩衝材となり、更には犯罪や裁判の語り部となることにより、ストーリー展開に一定の流れができ緩やかながらも読者を前に前にと後押ししてくれています。

 では先ずレビューの取っ掛かりとするために、この三部作に関して紹介文を参考にして簡単に振り返ってみます。

晴子情歌: 装画:青木繁「海の幸」1904年
(上)昭和50年、洋上にいる息子へ宛てられた母・晴子の長大な手紙。そこにはみずみずしい十五歳の少女がおり、未来の母がいた。三十になって知る母の姿に激しく戸惑いながら、息子・彰之は初めて母という名の海に漕ぎ出していく。
(下)戦前から戦後へ続く母・晴子の回顧と独白は、彰之自身の記憶の呼び声となって波の如く重なり、うねり合う。母はなぜこうも遠いのか。母とはいったい何者か。薄れゆく近代日本の記憶と、ある母子の肖像。

新リア王: 装画:レンブラント「金の鎖をつけた老人」(上)、「瞑想する哲学者」(下)
(上)『晴子情歌』で母と向き合った彰之は禅僧となり10年後、政治家の父・榮を雪の草庵に迎えた。長い年月を経て初めて対座した父と息子の魂は、聖と俗のはざまでせめぎ合い、燃え上がる。
(下))『晴子情歌』の時代から10年、福澤王国は崩壊した。王座を追われてなお政治家たらんとする父・榮と、仏という不可能に向かう息子彰之が切り結ぶのは父子の血か、人間という究極の孤独か。

太陽を曳く馬: 装画:マーク・ロスコ
(上)福澤彰之の息子・秋道は画家になり、赤い色面一つに行き着いて人を殺した。一方、一人の僧侶が謎の死を遂げ、合田雄一郎は21世紀の理由なき生死の淵に立つ。
(下)死刑囚と死者の沈黙が生者たちを駆り立てる。僧侶たちに仏の声は聞こえたか。彰之に生命の声は聞こえたか。そして、合田雄一郎は立ちすくむ。

 第一作が「晴子」、第二作が「新リア王=福澤榮」と明らかに個人を名指しして題名としているのに対し、この第三作は主人公を題名で特定していません。その代わりに紀元前二千年ごろのスカンジナビアのアルタの岩画に描かれている「太陽を曳く馬」という岩絵を題名としています。
 それに呼応するように装画も前二作が具象画であったのに対して、本作は抽象表現主義の代表的画家、マーク・ロスコの絵を用いています。

Newman_room  そして同じく抽象表現主義の画家・バーネット・ニューマンの「アンナの光」に高村女史は深く心を動かされたようです。巨大なカンヴァスに強烈な赤一色が均一に塗られているという、所謂「カラー・フィールド・ペインティング」の代表的作品ですが、本作中でも福澤秋道が邪魔になる音を消すため人を殺めた際に熱中していたのは部屋を赤一色に塗り込める行為でした。その行為を読み解くために福澤彰之が「アンナの光」に言及する記述があります。

「単一の色が視界の全てを覆ってしまうくらいの広さになると、それは光になる」

という記述は大脳生理学的にも大変示唆に富んだ表現で感服しました。

 そのような一見理解される事を拒否しているように思える現代美術を本作の重要なテーマとし、敢えて題名からも具象を捨て去る事により、この21世紀初頭の言葉による相互理解が困難な世界を読み解いていこうとする姿勢がうかがえるかと思います。先日「高村薫インタビュー」で掲載した女史の言葉を再掲します。

「20世紀以降、画家たちは目に見える形を崩すことで自由を求めた。秋道もまた、描くことでのみ、世界と相対している。多くの人にとって訳の分からない現代美術だけれど、それを眺めることで、言葉に替わる世界への向き合い方が開けてくるんじゃないか」
「殺人にしろ宗教にしろ、当事者だけでは普通の言葉が通じない。私たちを代表して観察する者、すなわち絶対的第三者の視点が必要だった。しかし一般の人間が事件を眺めても、実のところ何も見えはしない。だから絶えず言葉を発し、自他と対話するのです。」

 現代美術に関して大脳生理学にまで踏み込み、更にはその周辺にあるあだ花のようなポップ・アートから吉田戦車ガンダムの世界にまで言及するその貪欲なまでの探究心には脱帽せざるをえませんが、それがこの本を貫く真のテーマを理解する一助でしかないところに本作の真の凄みがあります。

 今回高村女史が問うた真のテーマは「」と「宗教(仏教)」の現代的関わり方であろうかと思います。特に主人公福澤彰之合田雄一郎の周囲にまとわりつく「死」の影の何と濃厚な事か。

彰之の妻初枝の餓死、
彰之の息子秋道の死刑死、
秋道の殺した二人(及び嬰児)の理不尽な死、
彰之が自らの修行施設に招き入れた青年僧の謎の事故死、
9.11事件での数千人の一瞬の死、
その中の数千人のうちの一人である合田雄一郎の元妻の死。

 その各々の死の意味を那辺に求めればいいのか、福澤彰之と合田雄一郎の問いは果てしなく続いていきます。

 そして死のあるところに宗教は必ず存在します。今回も前回に続いて仏教、特に道元を開祖とする曹洞宗に関して、高村女史は彰之をはじめとする複数の僧侶に縦横無尽にその教義について語らせ、更には合田雄一郎が「正法眼蔵」を読むという、およそ刑事という職業イメージからかけ離れた行動をとるところまで踏み込んでいます。               

 その上で本作に於いて高村女史が検証したかった問いが後半の一つのヤマとなります。ストーリーの本筋においては、てんかん(複雑部分発作)の持病があり、不慮の事故死を遂げた一青年僧が実は元オウム真理教信者であったことから謎が深まっていくのですが、高村女史が現実世界の問題として問いたかったのは

「オウム真理教を宗教と認め得るか?」

という疑問です。日本仏教界が当時避けて通ったこの問いに真正面から切り込むために、ストーリー中では彰之が自身が副僧侶を勤める寺の修行道場において元オウム信者を嫌がる他の僧侶たちにこの問いを発します。
 
 おそらく高村女史の結論は、この作品の重要な登場人物である長谷川明円住職の次の言葉に集約されるのだろうと個人的には思います。

「主宰者である麻原という人物については、なにがしかの宗教的資質に恵まれた人だというだけで、実際には修行を怠り、瞑想を怠り、何より修行の大前提である戒を保たなかったと言うほかはない。あんな太ったグルはおりません。(中略)オウムが自らを宗教と呼ぶのは自由だけれども、一般には、人間の言語体系を超えた神秘体験の抽象化、表象化がない世界を宗教と呼ぶのは難しい」

 こう長谷川明円が切って捨てるまで、一体何万何十万語を費やした事か!道元の教えはもとより、マックス・ウェーバーの近代社会学的視点、分析と体系化のインド哲学的理性に照らし合わせて討論し続ける5人の僧侶の論戦はもう圧巻としか言いようがありません。特に当時流行語にまでなってしまった「ポア」「タントラ・ヴァジラヤーナ」について、漠然と

「仏教用語を勝手に自らに都合よく解釈し人殺しを正当化した」

というところまでは理解できても、その本来の意味を知らなかった私にとっては、初めて腑に落ちる説明を聞かされた気がしました。

 といっても5人の僧侶の論戦という形で情報が提供されるため、最終的な判断は個々の読者に委ねられていると言っても過言ではありません。「1Q84」に於いて同じオウム真理教を扱った村上春樹

物語の力

を信じているのであれば、高村薫

問い続ける近代的批判精神

を信じているのだろうと考えます。直観が必要な現代美術や神秘体験の抽象化が必要な宗教的世界の存在を認めた上で、敢えて人は問い続けていかなければならないのだ、という覚悟を現代人に突きつけているのがこの物語であり、その重さを受け入れるか拒否するかでこの作品に対する評価は大きく変わってしまうだろうと思います。個人的にはオウム真理教の意味を問う姿勢に関しては村上春樹よりも高村薫の方が圧倒的に優れていると思います。

 もちろん合田の部下で現代っ子の吉岡のように、本質を直感的に見抜く目は持っていてもそれ以上には踏み込もうとせず携帯相手に自分の世界に埋没してしまう現代人のあり方も、高村女史は(苦々しくは思いながらも)否定はしておられないようですが。

Hichinagahama  以上、形而上的記述が大半を占める本作ですが、最後は彰之の息子・死刑囚秋道に宛てた本仮名遣いの手紙で幕を閉じます。その最後近くで再び津軽の広大な七里長濱へと彰之の思いは帰っていきます。晴子が、彰之が、初江が、そして秋道が見つめていた茫漠とした砂丘と海。

 思えば「晴子情歌」は晴子の息子彰之宛の長大な本仮名遣いの手紙で始まったのでした。そしてその冒頭には、少女の晴子が見た七里長濱の境界も定まらぬ空と海と砂嵐の入り混じった白明、砂丘を渡る清々とした風の音、そして行きずりの雲水たちが唱えてくれた四弘誓願(しぐせいがん)の声とリンリンと鳴り続ける持鈴の音が描写されていました。

 おそらく彰之の心象風景にも、晴子の手紙から想像したこの情景があったでしょう。私ももう一度「晴子情歌」の冒頭を読み返してみて、なぜか涙が溢れてきました。この彰之の手紙は、渾身の三部作を読み通した者に高村女史が送ってくださった最高のプレゼントなのかもしれません。

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2009/08/10

高村薫インタビュー

Takamurainterview
 20世紀を貫いて現在に至る壮大なサーガ三部作の完結編「太陽を曳く馬」を上梓された高村薫女史のインタビューが8月9日の神戸新聞に載っていました。私も現在本作と格闘中ですので、この記事を興味深く読みました。以下、小説の具体的な内容には極力触れない範囲内でまとめてみます。聞き手は神戸新聞文化生活部の平松正子氏で、下記文章中の「」内が高村女史の言葉です。

「百年先が見えない。いや、五十年先すら危うい。よもやこんな時代が待っていたとは」

 三部作の完結編はまさに21世紀の現在が舞台ですが、怒りや焦燥、違和感といった「今」の時代感覚が全編に溢れています。そして今回は高村ファン待望の刑事合田雄一郎が登場します。
 前作の「新リア王」が昭和政治及び仏教哲学と真っ向から向かい合い極めて難解であった事は以前のレビューで述べましたが、今回は合田刑事が難解な現代美術仏教哲学を語る上での緩衝材となり、更には犯罪や裁判の語り部となることにより、前作に比してはるかに読みやすくなっています。もちろん合田も悩み、迷い、問い続けるわけですが、

「殺人にしろ宗教にしろ、当事者だけでは普通の言葉が通じない。私たちを代表して観察する者、すなわち絶対的第三者の視点が必要だった。しかし一般の人間が事件を眺めても、実のところ何も見えはしない。だから絶えず言葉を発し、自他と対話するのです。」

と高村女史は合田の役割を説明します。私が太線にしたところは裁判員制度についての彼女の見識かもしれませんね。

 さて、今回は死刑囚である秋道(しゅうどう、三部作の主人公福澤彰之の息子)が精神に問題を抱えた現代美術画家であるという設定を設けて、現代美術、更には視覚脳生理学にまで深く切り込んでいます。脳生理学は僭越ながら私の専門分野の一部でもあるのですが、その踏み込み方は明らかに凡百の医療小説をはるかに凌駕していると断言できます。

「20世紀以降、画家たちは目に見える形を崩すことで自由を求めた。秋道もまた、描くことでのみ、世界と相対している。多くの人にとって訳の分からない現代美術だけれど、それを眺めることで、言葉に替わる世界への向き合い方が開けてくるんじゃないか」

 まだ読了はしていませんが、色が単一で視界の全てを覆ってしまうくらいの広さになると、それは光になる、という記述に深く心を動かされました。ちなみに草間彌生の名前が何度か出てきますので、彼女のお好みなのかな、と思います。

 さて、前作に引き続き宗教についても語られ、新たな事件とも深く関わっていきます。ここでは詳細は語りませんが、その方向と覗きこむ深淵は村上春樹とは明らかに別のベクトルを有している、とだけ申し上げておきます。

「抽象絵画と同じく宗教、特に仏教も、世界への向き合い方を示すもの。一切は空であり、言葉による意味付けを超越している点も共通する。だが画家であれ、宗教家であれ、やはり人間の言葉で考え、問い、答え続けるしかない。そんな矛盾をはらんだ言語運動のなかに、もちろん作家もいるわけです」

 一体これだけの覚悟で小説を書き続けている作家が何人いるのか、と思うと彼女の今後の更なる活躍を期待せずにいられません。ただ、

「今度は真逆のものを書きたい。思い切り”地べた”の話をね」「恐ろしく形而上的な事を考えた直後、同じ頭で真剣にくだらないことを考える。それが人間ですから」

だそうです。この三部作の難解さに辟易して彼女から遠ざかってしまった方も、是非次の機会に帰ってきてください。とりあえず私はまた「太陽を曳く馬」に没頭する事にします。

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2009/07/26

君はフィクション / 中島らも

君はフィクション (集英社文庫 な 23-23)
君はフィクション (集英社文庫 な 23-23)
 今日7月26日は中島らもの命日です。先日のセルフ・セレクション・ベスト10で紹介した「わかぎゑふさんのコメントに泣く」を書いてから5年の歳月が経ったわけですね。アクセス記録を見ますと沢山の方にその記事を見ていただいたようで、感謝しております。ちょっとはらもさんへの供養になったでしょうかね?あの世で「余計なお世話や」とぼやいてるかもしれないけど。
 その彼の最後の短編集が「君はフィクション」で、最近未刊行短編3本を追加して文庫本化されました。先日買ってもうとっくに読み終わったんですが、裏を見ると「2009年7月25日 第一刷」となっています。深い意味はないのかもしれませんが、泣けますね。

山紫館の怪
君はフィクション
コルトナの亡霊
DECO-CHIN
水妖はん
43号線の亡霊*
結婚しようよ
ポケットの中のコイン*
ORANGE'S FACE*
ねたのよい - 山口富士夫さまへー
狂言「地籍神」
バッド・チューニング

 異端者、特に精神・身体障害者への強いシンパシーを示す「君はフィクション」「DECO-CHIN」「ORANGE'S FACE」、怖いようなおかしいようなもの悲しいような、らも風としか言いようのないホラー「山紫館の怪」「コルトナの亡霊」「水妖はん」「43号線の亡霊」「狂言地籍神」「ポケットの中のコイン」、音楽への傾倒を示す「DECO-CHIN」「バッド・チューニング」、中津川フォークジャンボリーや京都ロック・シーンのルポとも言える「結婚しようよ」「ねたのよいー山口富士夫さまへー」、どれをとってもらも節は健在です。

 死の数年前はアルコール・薬物中毒、躁うつ病で入退院&拘置所留置などを繰り返し、完全に日常生活は破綻していたはずの彼ですが、他作品とのネタの重複や若干の文体の乱れはあるものの最後の最後まで書く文章は昔からのらもそのものだった、と言うところには畏怖の念さえ覚えます。

 ことに未刊行だった3作品は文体に切れがあるし、文章が立っていて凄いなと思います。他の短編より以前にどこかに発表されたものならむべなるかな、とも思いますし、もしこれが死の間際の作品であったなら、蝋燭の灯の消える前の最後の輝きだったのかもしれません。

その時、後方で、全ての色彩が炸裂した。ビュウウンという、ものすごい音がして、色彩の、光芒のかたまりが彼のポルシェを抜きさっていった。そしてそれは中央からフェンシングの刃先のように、真紅や、青や、緑や、オレンジ色の閃光をひらめかせながら一つの光の玉となり、そのままビュイッという音だけを残して路上から消えたのだった。(43号線の亡霊)

らもさんの散り際そのもの、かな。

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2009/07/23

日本の医療小説・ノンフィクション40冊(2)医療ノンフィクション傑作20選

Kunioyanagida
(柳田邦男氏)
 前回に次いで、日経メディカルの500号記念増刊号「日本の医療小説・ノンフィクション40冊」企画よりノンフィクション編を取り上げてみます。選者はやはり前回と同じく書評家の東えりか氏と日経メディカル編集長千田敏之氏です。

医療ノンフィクション傑作20選
1:ガン回廊の朝 柳田邦男(1979)
2:誰も書かなかった日本医師会 水野肇(2003)
3:エイズ犯罪 血友病患者の悲劇 櫻井よしこ(1994)
4:ルポ 精神病棟 大熊一夫(1973)
5:ガン病棟の九十九日 児玉隆也(1975)
6:乳ガンなんかに負けられない 千葉敦子(1981)
7:生と死の境界線 岩井寛(1988)
8:「死の医学」への序章 柳田邦男(1986)
9:癌と闘った科学者の記録 戸塚洋二、立花隆編(2009)
10:病院で死ぬということ 山崎章郎(1990)
11:救命センターからの手紙 渡辺祐一(1998)
12:検疫官 小林照幸(2003)
13:レーザーメス 神の指先 中野不二夫(1989)
14:蘇る鼓動 後藤正治(1991)
15:凍れる心臓 共同通信社移植取材班(1997)
16:日本の臓器移植 相川厚(2009)
17:院内感染 富家惠海子(1990)
18:「尊厳死」に尊厳はあるか 中島みち(2007)
19:わたしのリハビリ闘争 多田富雄(2007)
20:臨床瑣談 中井久夫(2008)

テーマ
1-4:戦後から現代までの医療を俯瞰
5-9:癌闘病記
10-12:現場で戦う医師たち
13-16:医療技術の進歩
17-18:医の倫理
19-20:現代医療の問題点

 やはりノンフィクションは小説にもましてよく読んでいますね。ですから大半は知っていますが、特に「病院で死ぬということ」は初めて読んだ時は涙で最後まで読みとおす事が大変だったのを覚えています。読後には全く自分の分野とは畑違いのこの方向へ進もうかとさえ考えましたが、続編が次々と出るに連れて少しずつ覚めてしまいました(苦笑。
 一方で「レーザーメス 神の指先」などは自分の専門分野のど真ん中なんですが、冒頭の医師の態度が余りに奇矯で最後までのめりこめなかった覚えがあります。たしか、アポロ12号の月面着陸のTVでの生中継に熱中する余り、9時からの外来業務をサボタージュしてしまい、ついに外来時間が終わってしまったと言うエピソードでした。それにはそれなりの理由があるとはいえ、当時の真面目な自分には許せない愚行のように感じましたね(^_^;)。

 前回取り上げた「和田移植」に関しても二冊入っています。ただ、いくら最近の言動がおかしいとはいえ、立花隆氏の渾身の力作「脳死」「脳死再論」が入っていないのはやっぱりおかしいかな、と思います。

 

 あと、医療関係者以外の方が医療ノンフィクションを読まれる場合気を付けていただきたいのは、医療自体が日進月歩であるため賞味期限がある事、そして医療には不確定な要素が多く、また立場によって考え方も大きく異なってきますから、著者の主張が必ずしも100%正しいとは限らない事です。

 例えば柳田邦男氏の「ガン回廊の朝」は、発刊当時大変感激しながら読んだ記憶がありますが、例えば今の医学生、研修医あたりが勉強するにはもう古すぎます。まさに古典を読むような感じでしょうね。もちろん医学の歴史、先達の苦労を知るには良いでしょうけれども。

 そう言えば柳田邦男氏の講演も学会で聴かせていただいた事があります。失礼ながら、あれだけの文章を書く方とは信じ難いほどぼそぼそとした語り口で、話の内容も要領を得なかったので大変がっかりした覚えがあります。そのときの体調がお悪かっただけなのかどうかは分かりませんが、それ以後あまり氏の著作は読まなくなりました。

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2009/07/22

日本の医療小説・ノンフィクション40冊(1)医療小説傑作20選

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(故吉村昭氏)
 医療系雑誌「日経メディカル」が500号発刊を迎え、その記念増刊号が今日職場へ贈られてきました。
 増刊号のテーマは「日経メディカルは何を伝えてきたか」で、全編大変読み応えがありました。そしてその中に「日本の医療小説・ノンフィクション40冊」という企画がありましたので、ブログに取り上げてみる事にしました。選者は書評家の東えりか氏と日経メディカル編集長千田敏之氏で、医療小説を20冊、ノンフィクションを20冊セレクトされています。今回は先ず小説を取り上げてみましょう。

医療小説傑作20選:
1:海と毒薬  遠藤周作(1958)
2:背徳のメス  黒岩重吾(1960)
3:白い巨塔  山崎豊子(1965)
4:神々の沈黙  吉村昭(1969)
5:消えた鼓動  吉村昭(1971)
6:ダブル・ハート  渡部淳一(1975)
7:生きている心臓  加賀乙彦(1991)
8:孤高のメス  大鐘稔彦(2005)
9:冷い夏、熱い夏  吉村昭(1984)
10:命  柳美里(2000)
11:恍惚の人  有吉佐和子(1972)
12:黄落  佐江衆一(1995)
13:明日の記憶  萩原浩(2004)
14:閉鎖病棟  箒木蓬生(1994)
15:空中ブランコ  奥田英朗(2004)
16:今夜、全てのバーで  中島らも(1991)
17:チーム・バチスタの栄光  海堂尊(2006)
18:神の汚れた手  曽野綾子(1980)
19:廃用身  久坂部羊(2003)
20:風花病棟  箒木蓬生(2009)

テーマ:
1:医者とは何者なのか
2、3:医療小説の金字塔
4-8:移植と脳死
9、10:癌告知
11-13:認知症
14-16:精神科医療
17-20:新潮流

 普段「医療モノは嫌い!」とか言いつつ、悔しいけど結構読んでるなと思いました(笑。 北壮夫南木佳士が入らずに何であいつが(^_^;)とか思ったりもしましたが、テーマを決めての選択である事もあり、まあ概ね妥当なんだろうと思います。特に1、2、3、11、18などは戦後日本文学の全ジャンルでセレクトしてもその中に入ってくる傑作だと思いますし。

 個人的には中島らも加賀乙彦は好きですね。もちろん一番好きなのは「今夜、全てのバーで」。ちなみに日常的に使っていたセルシン(diazepam)がそんなに効くのか、と驚いた覚えのある作品です(笑。

 先日記事にした改正臓器移植法に関連してか、移植関連が5冊も入っている事も目立ちます。しかもそのうちの4冊が通称「和田移植」と呼ばれる和田寿郎(当時札幌医大教授)による日本初の心臓移植を取り上げています。
 心臓移植は1967年南アフリカで初めて行われ、そのうち日本でも行われるだろうとは言われていたのですが、1968年に突然青天の霹靂のように行われ、世界で30例目として当時大変な話題になりました。しかし手術を受けた青年は術後63日目に死亡し、その後ドナーの選択、レシピエントの選択ともに疑問点が多く明るみに出て和田寿郎はついに刑事告発されます。結局嫌疑不十分で不起訴になりますが、その後の移植医療に暗い影を落とし、日本は世界から完全に取り残される事になります。二例目の心臓移植は臓器移植法が成立した後阪大で行われましたが、和田移植から既に30年余もの歳月が流れていました。

 個人的にはこの和田移植はドナー、レシピエント二人に対する殺人行為だったと思っています。実は私は学生時代和田寿郎の招待講義を聴講した事があります。まだまだ自信満々、と言うよりはマスコミに対して明らかな敵意を抱いておられ、「医療の医の字も知らない素人に何が分かるか」という傲慢な感じさえ受けました。心臓移植の講義ではありませんでしたが、少なくとも移植に関して微塵の罪悪感も抱いていない事は良くわかりました。

 私の移植嫌いはこの辺に端を発するのかもしれません。もちろん私も今の医療マスコミは嫌いですが、それはあくまでも医療側が間違った事をしていない、と言う事が前提であり、この和田移植のような犯罪的行為は糾弾されてしかるべきであったと思います。
 当時まだ札幌医大の整形外科医師だった渡辺淳一の行動力もさることながら、小説家であった吉村昭の取材の執念と筆力は大したものだと思います。「神々の沈黙」を未読の方で改正臓器移植法に興味がある方は是非一度お読みください。

 ちなみに吉村昭氏は後年舌癌と膵臓癌を患い、2005年7月自宅で息をひきとります。その際、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、その数時間後に逝去されたそうです。戦前生まれの気骨を感じさせる真の硬骨漢らしい最期だと尊敬の念を抱かずに入られません。享年79歳。ちなみに和田寿郎はまだ存命です。

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2009/07/13

1Q84の魅力/ 湯川豊x小山鉄郎

1q84critics
 村上春樹の「1Q84」については一度雑感を書きましたが、もう雑誌・ネット上ではプロ・アマを問わず評論のオン・パレードで「狂騒状態」といっても過言ではないでしょう。私もほとぼりの冷めたころ、すなわちもうネタバレの文章が許される頃にもう一度書こうと思っていたのですが、ここまで百花繚乱となると到底一人で裁ききれるものではないなあ、とあきらめかけていました。
 そんな折り、神戸新聞の7月9日、10日、11日の三日間に渡って「1Q84の魅力」と題して春樹氏と親交のある文芸評論家の湯川豊氏と、以前「物語の力」でも紹介したことのある、春樹氏を繰り返し取材しておられる共同通信の小山鉄郎編集委員の対談が掲載されました。同意できるところもあればできないところもありますが、要領良くこの複雑な小説の骨格と背景を浮かび上がらせている対談ですのでその要旨をまとめてみました。

(上)湯川:支配することの悪を描く、小山:見かけにだまされない
1q84critics2 ・200万部の売り上げは凄い、話題性だけでなく口コミで面白さが伝わっている。
・普通に読めば青豆がリーダーを殺害する前の二人の長い対話がヤマだと思うが(小山)、計三章に渡るにもかかわらず殆ど論じられていない(湯川)。
・文化人類学者フレーザーの「金枝篇」の「殺される古代の王」をどう読むか(湯川)、青豆は「あなたは王なのか」と問うが、「王ではない、声を聴くものになったのだ」と答える。王は人々の代表として声を聴くもので、統治することは神の声を聴くことと同じことだとリーダーは言う(小山)。
・このリーダーは一見麻原彰晃を思わせるが、むしろ映画「地獄の黙示録」のカーツ大佐に似ている。彼は王国を作って住民を支配し「金枝篇」を読みながら誰かが殺しに来るのを待っている(湯川)。この映画を村上春樹氏は好きである。第一章の題は「見かけにだまされないように」となっているから、人物の設定が見かけ通りなのかいろいろ重層的に考える必要がある(小山)。
・このリーダーは人と言うより一個の闇=悪。そして能弁である。村上氏が「発言する闇や悪」を書いたのは初めてではないか。(湯川)
・結論として、村上氏は殺される古代の王を通して人を支配することの悪を描いた。聖性による支配の怖さである。(湯川)
リトル・ピープルは「小さな人たち」すなわち「倭人」=日本人のことではないかと思う。(小山)
・目に見えない存在とも書かれているので卑弥呼の時代にまで遡るわれわれの遺伝子や血脈的なものと考える。(湯川)
ふかえり古事記に出てくる「そとおり(衣通)」姫のことではないか、二人とも失踪する美女で、美しさが衣を通して輝く。そして彼女が平家物語の壇ノ浦の合戦を暗唱する場面があるが、これは安徳天皇が入水するところ、すなわち古代の王の死の場面。(小山)

(中)湯川:閉鎖社会に対する恐怖、小山:原理主義に抗する意思
1q84critics5 ・「海辺のカフカ」刊行時にインタビューした際、村上氏は「閉鎖社会になることの恐怖」を強調し、どんなことがあっても自分はオープンな社会の側に立ちたいと語っていた。(湯川)
・本書がタイトルに引用したジョージ・オーウェルの「1984年」は1949年に想定されたスターリニズムを背景とした閉鎖社会、管理社会の恐怖である。そして今閉鎖社会への恐怖を書くとするとこの題名にならざるを得ないのではないかと思う。(湯川)
イスラエル賞受賞時、様々な批判のある中で彼は一つだけの価値観だけから「そこに行くな」と言われると行ってみたくなるのが小説家だと話していた。受賞スピーチにおいても原理主義に身を預けず、考え迷い傷つく人間の側にいること、その上でいかに自立した存在でいられるかが大切である、と語った。(小山)
・1Q84の世界は現実の時間から少しずれて二つの月が出ている。一つだけの月ではない世界に原理主義に抗する意思もこめられているようにも読める。(小山)
・1Q84を読みながら不思議に日中戦争の事を考えていた、「ねじまき鳥クロニクル」と同じく奇妙な形で入り込んでしまった近代日本の行き詰りのような世界。(湯川)
・DVというのも閉鎖的世界で起きることだ。(湯川)
・執筆中の村上氏を取材した時にオウム真理教の地下鉄サリン事件実行犯に関して「何であの人たちはあっちへ行ってしまったのか。そのことをちゃんと解明しておかなくてはいけない」と語っていた。一方同事件の被害者である普通の日本人たちからは、とても信頼できるボイスを聞いたとも語っていた。(小山)
・閉鎖的で濃密な世界の中で流れに抗さず従ってしまった日本人、その一方でとても信頼できる普通の日本人。その両面を見ることであくまでオープンな社会をよしとする村上さんらしい思考がこの「1Q84」にはある。(湯川)

(下)湯川:物語に託す強い希望、小山:動く中で方向性を示す
1q84critics3 ・二つの月が見えているのは青豆天吾ふかえりである(湯川)。新しい小ぶりの月が緑色なのは青豆(グリーンピース)が20年間思い続けているうちにグリーンピース色になってしまったということだろう(小山)。ずいぶん変わった愛の形である(湯川)。
・日本人はあなた任せで信念も無く時の流れの中で変わってしまいがち(小山)だがそれと反対の「時による風化を簡単には許さないという決然とした思い」を抱く青豆には二つの月が見える。そのような反リトル・ピープル的な人の代表がふかえりである。(湯川)
ふかえりは物語を語る人、リトル・ピープルというのはわれわれの中にある血脈、DNA的なもの。ふかえりが反リトル・ピープル的だとすると物語には血脈的な集団性に対抗できる力があるということ。(湯川)
天吾ふかえりの語った物語をリライトするうちに積極的な人間に転換され月が二つ見えるようになった(小山)、ここに村上氏が物語に託す非常に強い希望があらわれていると思う(湯川)。
・今世界は混迷の中にあり再編成されなくてはならないのは明白であるがそのためには自分のいる場所から動いていかなくてはならない。でも混沌とした闇の中を動いて行くのは恐怖である。その恐怖に対抗するのが物語、物語は動いていくもので、その中であるまとまりと方向性を指し示す(小山)。
天吾と父の和解の場面は奇妙でありながら感動的である(湯川)。天吾は「自分と父は血のつながりがないなら、父を愛せる」と思う、そして青豆ふかえりも、みな親との関係を断って生きる(小山)、つまり一人で生き、一人で死ぬ覚悟みたいなものを持つ人たちが反リトル・ピープルである(湯川)。
・父親と和解した後で天吾が「温かい日本茶」を飲む場面がすごくいい。本当に美味しそうな日本茶である。(小山)
・「空気さなぎ」は天吾がリライトした小説で、その内容は最後に青豆が読むというかたちで明らかにされる。小説内小説が強い光源となって、もう一度全編を照らし出す(湯川)。まさに「物語の力」を実感するところである。(小山)
・長い長い物語の最後に、空気さなぎに包まれた青豆天吾の前に現れる。この小説の一番美しい場面だと思う。(湯川)

 見かけにだまされず重層的に読まなければならないと語っておられるように、村上春樹を知り尽くした二人は重層のうちの深層を中心に語っておられるように思います。
 ですから浅層の部分は敢えてさらりとしか触れなかったのだと思いますが、浅層には浅層の語られれるべき論点は沢山あると思います。それは例えばオウム真理教、日本赤軍、ヤマギシ会といった団体組織であり、DV(domestic violence)、フリー・セックスといった風潮であり、更には文壇・出版界という世界でしょう。
 特に、この本を読む日本人で、リーダーと呼ばれる人物に麻原彰晃を思い浮かべない人はまずいない、その上で確信的にリーダーに神秘性、超能力を付与した事に関してだけは個人的には未だ納得できていません。それに関して「殺される古代の王」を持ち出して論じても隔靴掻痒の感は否めないというのが正直な感想です。
 そしてリトル・ピープルに関してはいささか牽強付会な気もします。まずは村上氏の短編「TVピープル」との類似性について語るべきだったと思います。

 もう一つ言わせていただくと、今一番読者を悩ませている「続編があるのか」という問題に言及しておられない。というか、完結していると言う前提で対談しておられるような気がします。
 例えば空気さなぎに包まれた青豆が現れるシーンを美しいと感じるのはこの小説がこれで完結していると考えていればこそではないでしょうか。この空気さなぎを産み出してしまったのは明らかに天吾であり、そうすると彼はリーダーにとってかわる存在にならなければならず、その後の物語があるとすればその中で天吾には恐ろしい厄災が降りかかってくると考えられるからです。ですからたとえ産まれてきた青豆自体がどんなに美しくても、あのシーンはおぞましいシーンであると、私は感じました。

 もちろん時間の制限、紙数の制限もあって枝葉末節まで語れない事は明らかであり、その制限の中で良くまとめられている記事だったと思います。自身を含めて、読後に考えをまだまとめきれていない方の参考になれば幸いです。

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2009/06/26

夜想曲集 / カズオ・イシグロ(土屋政雄訳)

夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語
 日本生まれの英国作家カズオ・イシグロの作品については以前「私を離さないで」を紹介したことがありますが、彼の4年振りの最新刊「Nocturnes:Five Stories of Music and Nightfall」の訳本が出ました。邦題「夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」から推察できるように彼自身初の短編集であり、今回も土屋政雄氏が訳を担当されておられます。

1:Crooner ; 老歌手
2:Come Rain Or Come Shine; 降っても晴れても
3:Malvern Hills; モールバンヒルズ
4:Nocturne; 夜想曲
5:Cellists;  チェリスト

『ベネチアのサンマルコ広場を舞台に、流しのギタリストとアメリカのベテラン大物シンガーの奇妙な邂逅(かいこう)を描いた「老歌手」。芽の出ない天才中年サックス奏者が、図らずも一流ホテルの秘密階でセレブリティと共に過ごした数夜の顛末(てんまつ)をユーモラスに回想する「夜想曲」を含む、書き下ろしの連作五篇を収録。人生の黄昏を、愛の終わりを、若き日の野心を、才能の神秘を、叶えられなかった夢を描く、著者初の短篇集。』

 土屋政雄氏があとがきに書いておられますが、欧米では短編集のマーケットは長編に比べて極めて小さいそうです。だから損得勘定でいけば短編集を出すことは作家にとっては損になるのですが、長編を書くたびに1年半から2年も海外にプロモーションに出かけ、無数のインタビューに答えるという生活に疲れ果てていたこともあり、カズオ・イシグロは敢えて短編集を書こうと決めていたそうです。

 そしてそのコンセプトとして、全体を5楽章からなる一つの曲、或いは五曲入った一つのアルバムとして読んでもらえるような短編集を作り上げたのがこの本だということです。
 5楽章と言うと先日レビューしたマーラー7番「夜の歌」を思いだしますが、この本も

1、5: 旧共産圏から出てきた音楽家がアメリカ流の恋愛に戸惑う話
2、4 ドタバタ喜劇
: 著者の自伝的要素のある他の4編と趣きを異にしている話

と、ABCBAの緻密に計算された構成となっています。おまけに第4話が本の題名になってますし、本当に不思議な因縁を感じましたね(笑。ちなみに楽器としてはギター、サックス、チェロなどが登場し、若い頃ミュージシャンを目指していたと言うだけあって本当に音が聞こえて来そうなほど活き活きと描写されています。

 英国育ちの著者ですが、若い頃の好みは結構渋くてアメリカの古いスタンダード、特にブロードウェイ・ソングがお気に入りだったようです。当然ながらその時代の英国のキャンパスにあっては異端だったようで、スタンダードの名曲を題名にした「降っても晴れても」の冒頭にこんな一節があります。

僕らの世代は(中略)、学生は大きく二つに分類できた。引きずるような衣に長髪のヒッピータイプはプログレッシブ・ロックを聞き、きちんとツイードを着るタイプはクラシック一辺倒で、ほかのすべてを騒音とみなしていた。たまにジャズを好きと言う学生もいたが、これはほとんどがクロスオーバージャズのことだ。(中略)サラ・ボーンチェット・ベイカーがエミリの好み、ジュリー・ロンドンペギー・リーがぼくの好み。ともに、シナトラエラ・フィッツジェラルドはちょっと苦手だった。

とまあこのように古いスタンダードをはじめ、クラシックからジプシー音楽、映画音楽等様々な音楽のエッセンスが随所に織り込まれた五編の小説は音楽好きの方にはたまらない小説となっています。音楽好きにはたまらないと言えば村上春樹氏もそうですが、この小説には1Q84より一足早くヤナーチェクも名前だけ登場しています(笑。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、折角ですのでペイパーバックと本書を一話ずつ交互に読みながら、先日読了しました。
 どの作品でも男女間の危機がテーマとなっており、音楽と並ぶテーマである「夕暮れ」を感じさせます。その語り口は著者が最も影響を受けたと公言しているチェーホフを髣髴とさせ、人生の一場面をさりげなく、しかも巧妙に切り取って描いています。
 惜しむらくは第一話「老歌手」の出来栄えがあまりにも良すぎて、第二、三、四話がやや霞んでしまっている印象を受けます。第四話に第一話の主人公の一人を登場させる必要があり、順番は替えられなかったのだと思いますが、これをトリに持ってきたほうが素晴らしい余韻が残ったのではないでしょうか。
 一方トリの「チェリスト」も不思議な味わいのある佳作です。実は英語で読んでいてもあまりぴんとこなかったのですが、不思議なことに邦訳で読むと深い余韻を感じました。まあ、英語を読みきれていないだけなんですが(苦笑。

 さて、読みきれていない事を承知でカズオ・イシグロの文体について感じたことを述べますと、

随分贅肉をそぎ落とした淡々とした文章を書かれるんだな

と驚きました。日本語と英語を交互に読んでいくと、まるで徹底的にブラッシュアップした英作文の模範解答を読んでいるような錯覚に襲われます。スラングや四文字はもちろん、余計な修飾語や成句、英語独特の言い回しなどはストイックなほど避けています。敢えて挙げるとするなら、

”If she finds out, she'll want to saw your ball's off."
「エミリが知ったら、おまえは金玉鋸挽きの刑だ」

くらいでしょうか。これだって名文家で知られ、「日の名残り」の邦訳で我がはむちぃ君の言葉遣いにも多大な影響を与えた土屋政雄氏の珍しい暴投と言えなくもありませんが(笑。

 閑話休題そのあたり日本が出自である事も関係しているんだろうかと思いましたが、実はそうではなく、土屋政雄氏曰く「インタビュー症候群」なのだそうです。

外国の識者によるインタビューを幾度となく受けているうちに、自分の作品が翻訳でどう読まれているか意識せざるをえなくなった、というのである。(中略)つまり、何を書く時もそれがどう翻訳されるかが気になってしかたがない。一例をあげれば、英語でしか通用しない洒落や語呂合わせなどは、翻訳では消えてしまうから極力避けるようになった。(土屋氏あとがきより)

なるほど、カズオ・イシグロほどになればそこまで考えないといけないのかと思う反面、土屋氏が述べておられるように「翻訳のことは翻訳者に任せ」て自由に書いてほしいとも思います。
 まあなにはともあれ、磨きぬかれた美しい文章を随所で読めるのは嬉しいことです。他にもいろいろと語りたい事もあるのですが、思わぬ長文となってきたこともあり、音楽に関係する美しいと思った文章を二つ挙げて終わる事にします。この文章がどういうところで出てくるのか、そしてどう土屋氏が訳されているのか、興味が湧いた方は是非読んでみてください。

This was Sarah Vaughan's 1954 version of 'April in Paris', with Clifford Brown on trumpet. So I knew it was a long track, at least eight minutes. I felt pleased about that, because I knew after the song ended, we wouldn't dance any more, but go in and eat the casserole.
(Come Rain Or Come Shine)

'But you play that passage* like it's the memory of love. You're so young, and yet you know desertion, abandonment. That's why you play that third movement the way you do. Most cellists, they play it with joy. But for you, it's not about joy, it's about the memory of a joyful time that's gone for ever.'
*: Rachmaninov
(Cellists)

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2009/06/16

Man In The Dark / Paul Auster

Man in the Dark
 またまた懲りもせずにポール・オースターです。今回は彼の最新作『Man In The Dark』をレビューしたいと思います。前回「The Brooklyn Follies」のレビューの際に、はむちぃ君から「村上春樹の新刊1Q84が来るまでには読み終えられないでしょう」と予言されてしまいましたが、悲しい事に現実となってしまいました(苦笑。
 実は9割がた読み終わってはいたんですが、とりあえず1Q84を先に読んでしまい、やっと先日読了しました。結果的にはラストの種明かしだけを残しておいた形になったので結構な衝撃を受けました。

 先日村上春樹の「1Q84」の雑感の中で、この二人の日米双方のベストセラー作家の最新作の設定がよく似ている点が興味深いと書きました。具体的に言うと、どちらもパラレルワールドというテンプレートの中で架空のアメリカ、日本を描き、それにより現代社会の病根を痛烈に告発しています。方や日本の村上春樹はフィクションとしては初めてオウム真理教事件と正面から向き合い、方やアメリカのPaul Austerは前作The Brooklyn Folliesに引き続きブッシュ政権の失政と9.11事件とに再び向き合っています。

 「各地で紛争が絶えない世界の多くの現実をテーマにした優れた衝撃的な小説」とAmazonの解説にはありますが、確かに本書を読むとブッシュ時代の暴力に満ちた世界情勢が彼の心に与えた深い傷がこちらの心にも痛いほど沁みてきます。それはとりもなおさず(日本人にオウム事件が与えた衝撃と同様に)アメリカ国民の多くが負っている心の傷なのでしょう。先ずは本書の梗概をペイパーバックの紹介文を参考にまとめてみましょう。

『 72歳の書評家August Brillはヴァーモント州にある娘Miriamの家で、自動車事故で負った怪我から回復しつつある。不眠症にも陥っている彼は、忘れたい記憶を頭から追い出すために、眠れぬ夜に物語を夢想している。その記憶とは最近の妻Soniaの死、そして孫娘Katyaの恋人Titusの死だ。Katyaも同様に心の傷が癒えず、Brillと一緒にひたすら過去の名画を観続けている毎日だ。

 さてその夢想の中でBrillはパラレルワールドを構築し、ニューヨークに住んでいるしがない一マジシャンOwen Brickをその世界に送り込む。そのもう一つの世界ではイラク戦争は起っておらず、世界貿易センターも倒壊していない。しかし、2000年の大統領選挙の結果(フロリダ州で不可解な集計があった、The Brooklyn Follies参照)によってアメリカ合衆国では国家の分裂が起こり、州が次々に連邦から脱退して血なまぐさい内戦が勃発している。殆どの都市は荒廃し物資も極端に不足している。Brickはこのパラレルワールドで悲慘な経験をした後に、ある使命を受けてこの世界に戻ってくる。内戦を終わらせる唯一の方法である彼の使命とは、見も知らぬ書評家August Brillなる人物を暗殺することだった。。。

 夜も更けていくうちにBrillの物語は次第に強烈なものになり、必死に避けている思いはかえって語られたがっているかのように消えてくれない。Brillは明け方にやってきた孫娘Katyaに徐々に心を開き、自分の恋愛、結婚生活、その破綻の理由などについてKatyaに語り続ける。Katyaが満足して寝入った後、彼はついに勇気を奮ってTitusの死にまつわる心に受けた深い傷と向き合う。』

Titusmonk_2
(Portrait of his son Titus, dressed as a monk, 1660, by Rembrandt)
 最初の簡潔な状況説明でTitusが亡くなった事実は早くも提示されています。そしてこのような文章により、彼がこの物語のキーパーソンであろうとおおよその見当はつきます。

His parents named him after Rembrandt's son, (中略), the little boy who turned into a young man ravaged by illness and who died in his twenties, just as Katya's Titus did. It's a doomed name, a name should be banned from circulation forever.

 Titusとは呪われた名前だと言う語り口が只ならぬ気配を感じさせます。ちなみにレンブラントの息子のタイタスの肖像は上記の絵が最も有名でしょう。実は私、この絵を見た事があります。2005年の「アムステルダム美術館展」に来ていました。マーラーのレビューで何度も出てきた明暗法を駆使した傑作で、レンブラント自身の肖像画とともにとても惹かれましたが、そう言われるとタイタスは色白で生気が無かったですね。

 さてそのTitusの死の真相は最終章に至るまで出て来ません。そしてその真相は冒頭に書いたように極めて衝撃的です。なおかつ現実に起きている事件を下敷きにしている事にあらためて戦慄を覚えます。この数ページの為に180ページを費やしたオースターの執念にも畏怖の念を覚えますが(苦笑。

 さてその真相を解く鍵がパラレルワールドの設定にある、と気がつくのはようやくこの最終時点に至ってからで、それまではパラレルワールドの物語が途中でフィルムが切れてしまうように唐突に終わってしまった事にずっと戸惑っていました。

 Brillが何故イラク戦争9.11事件も起こらない、より良い世界であるはずのもう一つの世界を現実世界よりはるかに悲惨な世界であると夢想したかったのか、そして自らを暗殺して欲しいと望むような自己破壊願望を抱いていたのか?
 日本語訳が出るまでまだ数年はかかるだろうという時期ですからネタバレは控えます。とりあえず、「その心情は察して余りある」という常套句だけ申し上げておきましょう。

 もちろんオースター作品の持ち味である薀蓄話も随所に散りばめられています。といっても今回はやや控えめですが。その中でもBrillKatyaが熱中している映画批評がとても面白かったです。ルノアールの「大いなる幻影」、デ・シーカの「自転車泥棒」、小津の「東京物語」、サタジット・レイの「大地の歌」などを例に取り、名作と呼べる映画では

ある「物体」を提示して登場人物の心情・運命や時代背景を暗示させる事により無駄な説明を省き深い余韻を残す

手法がとられている、という二人の討論はとても面白かったです。今後のゆうはむ映画レビューの参考にもなりました(笑。

 今回村上春樹の1Q84が(続編の可能性を示唆してはおられますが)若干消化不良の感があったのに比して、オースターの方はいつもの饒舌が少し影を潜め、スリムでスピーディな語り口となった事でより完成度を上げていると思います。より悲惨な世界を思い描かずには心の傷の痛みに耐えられない現実世界の酷さと、それを克服していこうとする家族の再生の物語は数多いオースター作品の中でもとりわけ深い余韻を残します。オースターファンは勿論、多くの方に読んでいただきたい作品だと思います。英語もそれほど難しくありませんので、日本語訳が出るまでと言わずに是非お読みください。

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2009/06/06

1Q84雑感

1Q84(1)1Q84(2)
 村上春樹の新刊「1Q84」を読了しました。先日の記事で「三人称の小説」「暴力が一つのテーマとなる」のは間違いないと書きましたが、とりあえずその通りでした。まだ読了しておられない方が多い段階だと思いますので、ストーリーや登場人物は伏せてとりあえずの雑感を書いておきたいと思います。その前に一応の採点をしておきます。

採点(十点満点、☆2点、★1点)

総合点: ☆☆☆☆

技術点: ☆☆☆☆★
構成点: ☆☆☆★
内容 : ☆☆☆★

 総合点8点と言うのは

「村上春樹作品としてまずまず満足しました」

と言うレベルだと考えていただければと思います。私の中では「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が10点、「ねじまき鳥クロニクル」が7点、「海辺のカフカ」が9点程度だと思ってください。(それ以前の作品とは比較が大変難しくなってしまっています。)

 技術的には文章の上手さ、人物描写の上手さ(料理、服装等も含めて)、比喩、暗喩の芸術的な手際等々、ほとんど文句の付けようがありません。ただ、新たな進歩が無いというか、完成された春樹文体の中で全てを語っていると言う点では若干のマンネリ感は否めません。

 構成的な事を細かく語るとネタバレになってしまうので、一言だけ言うと、三人称の文体でABABAB,,,,の構成はあまり好きではない。春樹氏はこの線を継続するつもりだと思いますが。

 内容についてはおそらく今、ネット上のいろいろな場所で熱い論議がかわされていることと思います。私は未だ見ていませんが、おそらくカルト教団の教祖の扱いについて賛否両論が渦巻いているのではないかと思います。私は否をとりますが、さりとて、逆の扱いをすればどんなストーリーになったのか、落とし所があるのか、難しいところです。春樹氏の見解を聞きたいところですが、おそらく

「説明しなければ分からないものは、いくら説明しても分からない」

とはぐらかされてしまうでしょう。ただ一言言わせていただくならば、あの当時「アンダーグラウンド」「約束された場所で」の二冊のノンフィクションしか書かなかった春樹氏が14年の歳月を経て真っ向正面から長編大作フィクションとしてこれを書いた以上、

「そういう幻想を持っているのか」

と批判されても、それは仕方の無い事と甘んじて受け入れるべきだろうと思います。イスラエル賞を受け入れた時と同じように。

 以下雑感です。内容がある程度推測できてしまいますので、読みはじめるまで何も予備知識を持ちたく無いという方はご遠慮ください。

1: 男女二人のプラトニック・ラブの物語が、溢れかえるほどの性と暴力に修飾されているアイロニー。

2: 彼は「留保の無い~」という形容をよくしますが、彼のセックス描写は村上龍の直截的な描写に比べると留保が多い。だからといってポルノ小説でないとは言えないけれど。

3: 本作は所謂パラレルワールドものの範疇に入る「留保の無い」SF小説だと思うのだけれど、春樹氏は後半にそれを留保している。

3: パラレルワールドの設定は、Paul Austerの「A Man In The Dark」に通じるところがある。

4: 疑いようも無く真っ向から実在の団体、宗教を取り上げている。オウム真理教連合赤軍ヤマギシ会エホバの証人等々。2冊のノンフィクションを書いた時に

「彼ならあの事件をネタにいくらでも小説が書けるはずだろうにそんなに楽して金儲けがしたいのか」

と言う批判を読んだ事がある。それに対する説明はいろいろな機会にされていたが、とりあえずこれが最終解答(Q.E.D.)なのだろう。本作までに14年の歳月が何故必要だったのか、分かるような気もすれば、ただ危なくない時期を選んだだけという気もする。

5: 文壇を真っ向から批判している、エッセーなどではそれとなく語っていたが、おそらくフィクションの中でこれだけ書くのは初めてでは?また、主要登場人物の編集者は安原顯を思い起こさせる。

6: ディスレクシアサヴァン症候群などが取り上げられているのも時代の流れか、それとも某心理学者の影響か。ディスレクシアは欧米圏の表音文字に関して語られる事の多い障害で、日本語にそのまま当てはめるのは無理があるような気がする。サヴァンの子の描写はTVドラマ「相棒」の某回を思い起こさせる。氏がそれを見ているかどうかはまあ誰にも分からない。

7: insane, lunaticの違いは春樹氏が言うのだから間違いないのだろうけれど、あれでいいのかな?go insaneという表現もあるけれど。まあそれはそれとして、今回は英語の扱いがいやにぞんざいだ。いくらなんでも「マザ」「ドウタ」はないだろう。

8: ジョージ・オーウェルの「1984」はやはりキーの一つだったが、阿Q正伝は関係なかった。氏がアジアに傾倒していると言う意見は発行前に多く見られたが、今回はゼロではないが影を潜めた。それだけ日本の病根にこだわりたかったということか。

9: ストーリーに関係無い範囲で気に入った文章を一つあげると、

「人類が火や道具や言語を手に入れる前から、月は変わることなく人々の味方だった。それは天与の灯火として暗黒の世界をときに明るく照らし、人々の恐怖を和らげてくれた。その満ち欠けは時間の観念を人々に与えてくれた。月のそのような無償の慈悲に対する感謝の念は、大方の場所から闇が放逐されてしまった現在でも、人類の遺伝子に強く刷り込まれているようだった。集合的な暖かい記憶として。」

10: 主人公の女性には今一つ共感できなかったけれど、読了してみると結構後に尾をひきそうな予感がする。じわじわと。じわじわと。

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2009/05/22

マリス博士の奇想天外な人生 / キャリー・マリス(福岡伸一訳)

マリス博士の奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF)
 知らない方はこの写真のサーフボードを抱えたおっさんが分子生物学に革命をもたらしてノーベル賞を受賞したなんて信じられないでしょうね。
 新型インフルエンザ関連ネタはそろそろ打ち止めにしようと思っていたのですが、実は某所でPCR法について書いたところ意外に反響が大きかったので、こちらでも「転写増幅」(笑)してPCR法の思い出なぞ書いてみようかと思った次第です。

 さて、最近の新型インフルエンザ関連のニュースで今や新聞で目にしない日は無い、と言って過言では無い「PCR」という検査方法ですが、これが何の略か、どんな検査方法か、ご存知の方はそう多くないのではないでしょううか。

 正式名称はPolymerase Chain Reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)と言います。ある特定のDNA断片があればそれを短時間で大量に増幅できるという、分子生物学者にとっては夢のような方法なのです。この方法が開発されたことにより、欲しいDNA断片を大量に増幅したり、微量の検体から簡単に目的とするDNAを検出したりする事が可能となり、分子生物学界に革命をもたらしたと言っても過言ではありません。
 ですから私などニュースで

確定するまでに数時間待たされる

とか言う記事を見る度に、

 「をいをい、こんな短時間で、あるか無いか分からんような検体から恐ろしいほど正確に診断できるなんて昔は夢物語だったんざますわよ、何贅沢ぬかしてけつかるんでございます?」

と、末成由美風に怒りを爆発させている次第です(笑。

(なお、インフルエンザウィルスの遺伝子はRNAですので、実際にはreal time RT PCR法が用いられています。この場合一旦DNAに逆転写してから増幅するのですが、それを話し出すとややこしくなるので今回は割愛します。)

 さて、この方法が開発されたのは1980年代後半で、丁度私が研究室にいた時代でした。この関連のペーパーを目にして、およそ研究者と呼ばれる人は皆が皆大変興奮していたことを思いだします。特に脳裏に焼きついて離れないのが、私の1年先輩のS先生でした。この先生は臨床を離れ研究者の道を選択され、アメリカで准教授まで勤められた後日本に戻られ、今はK大学の教授をしておられます。余談ですが、元阪神のランディ・バースの自伝にS先生がチラッと出てきます。それはさておき、一言でこのS先生を説明すると、

「この人を差し置いて誰を天才と呼ぶのか、そしてこの人を善人と呼ばずして誰を善人と呼ぶのか!」

というくらい素晴らしい人でした。この先生が帰神された際に

「ゆうけい君、アメリカにはやっぱりすっごい天才がおるわ、やっぱり恐ろしい国や」

と興奮気味に延々と語ってくださったのが、キャリー・マリスという人物と、彼が発見・開発したPCRという方法だったのです。以下簡単に発見の経緯をまとめてみます。

 およそ発明と言うものには思いもかけない発想が必要なものですが、この方法も変わりものの天才のひょんな思いつきから始まりました。それが、キャリー・マリスなのです。この方法の発明によりノーベル化学賞を受賞していますが、サーファーでマリファナ愛好歴もあり、奇行奇言癖でも知られています。そのあたりは以前紹介したことのある研究者福岡伸一先生の訳された「マリス博士の奇想天外な人生(冒頭リンク)」に詳しいのでぜひご一読ください。宣伝文句を転写しておきます。

『DNAの断片を増幅するPCRを開発して、93年度のノーベル化学賞に輝いたマリス博士。この世紀の発見はなんと、ドライブ・デート中のひらめきから生まれたものだった!?幼少期から繰り返した危険な実験の数々、LSDのトリップ体験もユーモラスに赤裸々告白。毒グモとの死闘あり、宇宙人との遭遇あり…マリス博士が織りなすなんても楽しい人生に、きっとあなたも魅了されるはず。巻末に著者特別インタビュー掲載。(AMAZON解説より)』

 さて、その方法。そもそもDNAを増幅するにはDNA合成酵素(ポリメラーゼ)という酵素が必要なのですが、普通のDNAポリメラーゼは蛋白質である以上、当然ながら高温では変性・失活してしまいます。
 一方DNAの増幅には必ずアニーリングという高温処理が必要なのです。だから高音処理した後はその都度冷やしてポリメラーゼを追加して、と言う煩雑な処理が昔は必要だったのです。 ですから今から考えると恐ろしく時間がかかりました。逆に言うと高温のままでポリメラーゼが働いてくれれば飛躍的に増幅時間が短縮できるのです。

 そこでマリスは思いついたのですね、今から考えればそんな事誰でも思いつきそうなのですが、それこそコロンブスの卵だったのです。
 実は温泉や海底の熱水噴出孔などでも生きている「好熱菌」という微生物が存在する事は1970年代から知られていました。その中には驚くべきことに80℃以上と言う超高熱でも元気な菌も存在するのです。ここまで書けばお分かりでしょうが、

「そいつらのDNAポリメラーゼは高熱下でも変性しないんじゃなかろうか?」

と言うアイデアがキャリー・マリスの頭に浮かんだのですね。上記の宣伝文句にあるように、彼はこれをドライブ・デート中に思いついたらしいです、S先生のおっしゃるように確かに天才とはこういう人を言うんでしょう。ただの秀才の理屈屋なら、どんな生物の持っている酵素だって蛋白質だから抽出精製したらやっぱり熱で失活してしまうだろう、と却下して忘れてしまうところですが、彼はそれを実際にやってみたのです。

 その結果は、今PCR法が存在するという事だけでお分かりですね。彼が抽出した高熱に安定なポリメラーゼはTaqポリメラーゼと言いますが、TaqとはThermus aquaticsに由来しています。ずばり好熱菌のことです。

 と言うわけで、PCRという活字を見る度にあの頃の事がS先生の思い出とともに懐かしく蘇ってきます。日本で爆発的に軽症のインフルエンザ感染者が増えているのは案外この機械が精密すぎるせいもあるかもしれませんね。

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