2008/12/23

今年を振り返る2008(3) 書籍・絵画編

Tehanutherru
(映画「ゲド戦記」よりコラージュ)
はむちぃ: さて皆様いきなりテルー様に睨みつけられ、申し訳ございません、「振り返る」シリーズ今回は「書籍・絵画」編でございます。
ゆうけい: 最強竜カレシンの娘、さすがの眼力ですな(^_^;)。
は: まあそれは後にいたしまして、先ずは本年の記事をピックアップしてまいりましょう。

一般洋書・和書
時の絆/ 日下唯
幻影の書 / ポール・オースター(柴田元幸訳)
MURAKAMI / 清水良典
Travels in the Scriptorium / Paul Auster
ゲド戦記:まとめ
ゲド戦記(1)(2)(3)(4)
ゲド戦記の世界観  書籍・雑誌
ゲド戦記四部作 /Ursula Le Guin
ティファニーで朝食を / 村上春樹訳
カラヤンとフルトヴェングラー / 中川右介
生物と無生物のあいだ/福岡伸一
モスラの精神史/小野俊太郎

は: 一般書籍に関しましては、去年はローリング女史(ハリポタ最終巻「Harry Potter and The Deathly Hallows」)とトルーマン・カポーティ(「冷血」「ティファニーで朝食を」)にこだわった展開でございました。
ゆ: カポーティにはこだわりましたねえ、それにしても「ティファニーで朝食を」のレビューの最後に

「いい加減新訳が出て欲しい、それも村上春樹さんあたりに書いて欲しい」

と書いたら本当に村上春樹版が出たのにはびっくりしました。
は: 瓢箪から駒みたいな感じで早速記事にされてましたね。訳書と言えば村上様の盟友、柴田元幸様がついに「幻影の書」を上梓されました。
ゆ: 私がポール・オースターの作品中最高の作品と考えている「The Book of Illusions」の訳ですからね、本当に嬉しかったです。そう言う意味では今年は訳書に恵まれましたね。ハリポタ最終巻日本版はもう家族が興味をなくしてしまってるので買ってませんが(笑。

は: とは言え、今年前半のハイライトは何と申しましてもル=グイン女史の「Earthsea Quartet(ゲド戦記)」でございました。
ゆ: 何故にジブリ映画「ゲド戦記」は失敗したのか、を検証する過程で原著を読み直したのですが、まあペーパーバックで700Pあるわ、記事は6回に渡るわで、収拾がつかなくなってしまいました(涙。
は: 最終回のまとめだけで良かったんじゃないの、という雰囲気をありありとはむちぃメ感じました(^_^;)。
ゆ: まあ、このシリーズだけに関して言えば、読む人のことより自分自身が納得したいが為に書いたところはありますね。
は: おつき合いくださった方には本当にありがとうございました。
ゆ: まあ、お礼代わりと言ってはなんですが、冒頭にテルーの絵をコラージュしたわけですが、

全部読んでいただいた方のみキャプションの意味が理解できる

ようにできております(笑。
は: わざわざレイヤーまで使ってフォトショするんですから(ーー;)。

Oishi
コミックス

のだめカンタービレ #21
PLUTO 6 / 浦沢直樹
美味しんぼ (102) 究極と至高の行方
のだめカンタービレ#20
もやしもんVol.6

雑誌等
レコードコレクターズ増刊 ビートルズ名曲ベスト100
「あなたが選ぶビートルズ名曲ベスト100」
「物語の力」 / 村上春樹インタビュー

は: コミックスに関しては今年ものだめともやしもんと浦沢直樹様に終始しましたね。
ゆ: その中で、ついに「美味しんぼ」が終了したことが今年の最大事件でございました。一つの時代が終わる時~♪
は: それは吉田拓郎様の歌でございます(--〆)。
ゆ: 拓郎、早く元気になってくれよ~(ToT)/
は: はいはいすぐ脱線するんですから、まあ何はともあれ、雁屋哲様、花咲アキラ様ご苦労様でございました。さて、来年の展望はいかがでございましょう?
ゆ: 先ずはアトムの復活でしょうね。それとのだめが一段落する気がしますけどね。

Corotmandoline
( コロー:マンドリンを手に夢想する女 )
美術展
コロー展@神戸市立博物館
佐伯祐三展再び@大阪市立美術館
シャガール展@兵庫県立美術館
フェルメール展@東京都立美術館
「冒険王」横尾忠則展@兵庫県立美術館
アンカー展@京都
南画って何だ?!展@兵庫県立美術館
藤城清治の世界展@松山
安彦良和原画展・観音屋@神戸元町
ムンク展@兵庫県立美術館

は: 美術展は結構まめに行かれましたね。
ゆ: 県立美術館は拙宅から行きやすいですからね、助かります。
は: で、今年印象に残った展覧会は?
ゆ: う~んやっぱり佐伯祐三かなあ、2回目だけど改めて魅了されてしまいました。
は: 余程お好きなんですね。
ゆ: という事になりますかね(^_^;)。
は: そう言えばこの中ではアンカー展には行かれてませんね。
ゆ: 家内からの依頼原稿でございます。でも複製画で日々鑑賞しております(笑。
は: 来年は何かご予定はございますか?
ゆ: モネの「日の出」が名古屋に来るらしいんだよね~、学生時代に見たきりだから、久しぶりに見たいんだけど、場所が中~途半端やな~(古。

は: と言うわけでございまして、最後に一言お願いいたします。
ゆ: 来年当たりはそろそろ村上春樹高村薫の新刊を読みたいです。

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2008/12/13

時の絆 / 日下唯

時の絆
 先日12月8日に向けて「靖国」のレビューを書いていて、太平洋戦争の名残の記憶さえない世代が今小中学生の親になっている現代において、正しい事実を次世代へ伝えていくことの難しさを感じていました。そんな折も折りにこの自費出版の小説を紹介され、何か運命的なものを感じました。ジュブナイルSF小説としても大変面白いですし、小中学生の子どもを持つ世代で子育てに悩んでいる方、そして何よりも、戦争というものの本質を子どもの世代にどう伝えるか悩んでおられる方にお勧めできる小説です。

『家を飛び出した潤が迷い込んだのは戦時中の明石の街だった。神戸・明石を舞台に中学生の少年が過去と遭遇する冒険ファンタジー。 (AMAZON解説より)』

 もちろん文体や台詞回しなどはプロ作家に及ばないにしても、プロットの整合性、伝えたいテーマの明確さ、そして綿密な土木、建築、絵画、歴史等の調査など、真摯に創作という作業に立ち向かわれておられることが伝わってくる本です。「靖国」で言及した田母神某の似非論文がただのプロパガンダであるとすれば、これは立派な戦争批判小説であると断言できます。

 複雑な家庭環境に悩む親と子供、両親の人生に隠された太平洋戦争の傷跡、将来の展望に対する戦前前後の世界観の違い等が分かりやすく小説の中に取り込んであり、小学校高学年のレベルから大人の世代までそれぞれの世代がこの本を読んで何かしら得るところがあると思います。

 特筆できるのは、日本がどうして戦争への道を止められずにずるずると勝ち目の無い戦いに引きずりこまれていったかを、中学生が勉強していくという形で丁寧に記述されていることです。
 著者も書いておられますが、日本の義務教育は、授業での日本史の勉強が一年単位であり、どうしても「現代史」までに至らず終わってしまい、戦後の殆どの世代が第二次世界大戦(太平洋戦争)以降についての正確な知識を持っていないという致命的欠陥を有しています。
 以前「ヒロシマナガサキ」のレビューで原宿の若者が昭和20年8月6、9日の出来事について全く知らなかったというエピソードを取り上げましたが、これがその歴史教育の結果であり、それはアメリカの深謀遠慮の結果だったかもしれないと思うと、この本が自費出版での狭い範囲を越えて一般に流布される価値は十分に存在すると考えます。

 具体的内容については個人的には「少年H」(妹尾河童)「蒲生邸事件」(宮部みゆき)「5分後の世界」(村上龍)「地下鉄に乗って」(浅田次郎)「海辺のカフカ」(村上春樹)等々が頭をよぎりましたが、全体的なストーリーの流れや登場人物の個性は昔のNHK少年ドラマシリーズを思いださせるようなノスタルジアを感じます。その上で何ともいえない心地よい透明感がある事、登場人物がみんな善人である事などが著者の人柄であろうと推察します。

 もちろん著者が主張する「戦争は絶対にいけない」という単純明快な主張には現実的ではない面もあり、平和平和と唱えるだけで戦争が無くなりはしない事も事実です。しかし客観的で正しい歴史を学ばない社会が悲惨な道を歩み始める事は多くの歴史が証明しています。冒頭に述べたように自分が太平洋戦争について十分な認識を持てずにいて子供に正確に伝える自信がないのであれば、是非一度手に取ってお読みください。

 最後に一言だけ申し添えておきます。あとがきの経歴を読まれれば著者と私が個人的な知り合いであろうことは容易に想像できると思います。ですから正直なところレビューすることもためらっていました。しかし再読してみて、購読して読んでいただいた方には、私が個人的な「縁故採用」でこの本を推しているわけではない、という事を十分ご理解いただけると信じ記事に採用させていただきました。

 このような知人がいることを誇りに思っています。

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2008/11/06

幻影の書 / ポール・オースター(柴田元幸訳)

幻影の書
 数年前、このブログを始めた時に文学関係ではこの本の邦訳レビューを書けたら本望だと思っていました。Paul Austerポール・オースター)の「The Book Of Illusions」です。
 実は私が初めて読んだ彼の原著長編が「The Book Of Illusions」で、その出版は2002年のことでした。それ以前もそれ以後も沢山の彼の著作を英語・日本語を問わず読んできましたが、今でも彼の最高傑作を一つあげろと言われたら迷わずこの本を推します。
 彼の著作の殆どの邦訳を担当しておられる柴田元幸氏が「幻影の書」という邦題で上梓される事は随分前から規定事実としてファンの間では語られていて、私も本当に一日千秋の思いで待ち続けていたのですが、ついに新潮社から出版されました。10月31日に予約しておいた本を手にした時は本当に感無量でした。

『救いとなる幻影を求めて――人生の危機のただ中で、生きる気力を引き起こさせてくれたある映画。主人公は、その監督の消息を追う旅へ出る。失踪して死んだと思われていた彼の意外な生涯。オースターの魅力の全てが詰め込まれた長編。オースター最高傑作!(AMAZON解説より)』

 ポストモダンの旗手から、超一流のストーリー・テラーへ成長していくポール・オースターの軌跡は逐一彼の著作を読んでいただくしかないのですが、この本において新たなる高みに達した事だけは間違いなく、彼にとって記念碑的な作品だと思います。
 語り口の饒舌さ、映画製作の経験の取り込み、小説としての重層的構造ポストモダン的登場人物、古典文学に関する該博な知識、そして濃厚なエロチシズム等々、彼の持ち味の全てを出しつくした上で、彼の作品では極めて珍しい主人公の魂の救済の物語となっていることもこの小説の特徴でしょう。

 飛行機事故で妻と子供を亡くしし絶望の淵に沈んでいる主人公が、ふとした機会に無声映画時代の無名喜劇俳優に魅せられ、彼の業績に興味を惹かれていくところから話が始まるのですが、その後はもう息つく暇も与えないほど目まぐるしく物語は展開していきます。
 主人公デイヴィッド・ジマーの魂の救済の物語を大枠にして、喜劇俳優ヘクター・マンの数奇な人生とその俳優に翻弄された複数の女性の生涯を中軸に置き、さらにその中で喜劇俳優時代の無声映画の数々や隠遁生活の中で作り上げた決して公開される事の無い映画を詳細かつリアルに活写し、更にはフランスの作家・政治家シャトーブリアンの著作「Mémoires d'outre-tombe」の文章を散りばめた構成は、数多い彼の同様の著作の中でも最高の完成度を示していると思います。

 特に外部の人間としてデイヴィッドだけが見た「The Inner Life Of Martin Frost」という映画は、ヘクターの贖罪意識の産物であるとともに、デイヴィッドの数奇な経験を予見した内容になっており一際精彩を放っています。

 柴田元幸氏の無理の無い折り目正しい日本語訳を1ページ1ページ読み進めていくうちに、衝動的にペーパーバックを買ってしまったもののこんな長い英文読みとおせるだろうかと不安一杯だったにもかかわらず、それこそ寝食を忘れるほど没頭してしまったのを昨日の事の様に思いだしていました。

 ポストモダン的エピソードとしては主人公の名前がDavid Zimmerであることをあげればファンには十分だと思います。一応説明しておくと彼の初期の傑作「ムーン・パレス」「最後の物たちの国で」に登場する人物と同姓同名です。
 更に今回「やられた!」と思ったのは、先日レビューした「Travels in the Scriptorium」がこの作品の中でヘクターの作品の題名として、そして更には先述した「Inner Life Of Martin Frost」の主人公の著作の題名としてご丁寧にも二度も登場していた事です。いやあ随分前に読んだきりだったのですっかり忘れていました、油断ならぬ相手です、オースターという人は。まあ、出版社側からのプッシュがあったのかもしれませんが。

 ちなみにあとがきでも触れられていますが、アメリカでは「The Inner Life Of Martin Frost」が実際に映画化されています。メイキングの状況やストーリーが微に入り細に渡り記述されていますから、その通りの映画ができても不思議ではありませんね。リジョンコードの関係で日本ではDVDでも見られないらしく残念です。

 何はともあれ、面白い本を読みたい方、現代アメリカ文学に興味のある方、柴田元幸ファン、どなたでも結構です、是非お読みください。そしてもし気に入ったら原文にも是非挑戦してみてください。

The Book of Illusions: A Novel

Les moments de crise produisent un redoublement de vie chez les hommes.

  excerpts from "Mémoires d'outre-tombe" by François-René de Chateaubriand, and also, " The Book of Illusions" by Paul Auster

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2008/11/03

MURAKAMI / 清水良典

MURAKAMI―龍と春樹の時代 (幻冬舎新書 し 1-2)
 いつも気になっていながら日々の多忙に紛れてついつい検証を怠ってしまう疑問と言うのは誰でもあると思います。私も幾つか持っているのですが、その一つが、

「私はいつ頃から村上龍ファンから村上春樹ファンに鞍替えしてしまったのか」

という疑問です。なんじゃそりゃ、と思われるかもしれませんが個人的には「足の裏の米粒」みたいに気になって仕方ない事でした。

 このブログを昔から読んでいただいている方は私が結構熱心なハルキストであることはご承知の事と思います。が、実はこの二人がほぼ同時期に華々しくデビューした頃はむしろ熱心な村上龍ファンだったんです。だからリアルタイムでおっかけをしてたのはむしろ龍さんで春樹さんの方は後追いでした。「ノルウェイの森」が一大ブームになった時も正直言うと馬鹿にしてました(^_^;)。それがいつの間に入れ替わったのか、現実生活が忙しかった事もあり、ほとんど記憶にないんですね。その謎を丁寧に解き明かしてくれる本が幻冬舎から新書で出ました。文芸評論家清水良典氏の「MURAKAMI-龍と春樹の時代」です。

『 かつてW村上などという呼び方をされた時期もあったが、龍のファンは春樹が苦手で、春樹のファンは龍が嫌いだったりする事が多い。しかし、二人の作品を時代ごとに対比させると、両者とも「アメリカ」「戦争」「セックス」「バブル経済」「崩壊の予兆」「十四歳」など、根っこの部分で驚くほどテーマがつながっていることがわかる。両MURAKAMIの物語によってあぶりだされた私たち自身の時代を振り返る、今までにない鮮烈な試み!(裏表紙解説) 』

 もちろん私の疑問に答えてくださったわけではなく(笑、1970年代に華々しく登場し、現在まで第一線を走り続ける二人の小説家「MURAKAMI」を比較検討する事により、戦後日本の現代政治、経済、精神史を検証しており、なかなか優れた現代史講義となっています。そう言う意味では読み応えがありますし、現代を代表する二人の小説(あるいは食わず嫌いのどちらか)をこれから読んでみたいと思っておられる方には絶好の入門本でもあります。

 ただ、同時代を生きて二人の多くの著作を知っている者からするとやや牽強付会な面もありますし、その検証を通じて二人が互いから影響を受けていることと二人の作品の共通点が強調されるあまり、じゃあどうして

「龍のファンは春樹が苦手で、春樹のファンは龍が嫌いだったりする事が多い。」

のかが、いまひとつ明瞭に説明されていないきらいはあります。まあ論点が多すぎると一冊の本としては散漫な印象を与えてしまいますからこれはこれでいいのかもしれませんが。おそらく、龍氏は時代を半歩先んじた小説を書き、春樹氏は時代を洞察した後に小説を書くと言う点にファンが分かれるポイントがあるのでしょう。

 さて、私の疑問の本題に戻ってみましょう。今回は村上春樹はおいといて(笑、龍氏にだけ焦点を絞って「いつから読まなくなったのか」を考えてみます。先ずは私が読んだ龍氏の主な作品を思い出してみます。それ程多くないので簡単です。

限りなく透明に近いブルー」(1976)
海の向こうで戦争が始まる」(1977)
コインロッカー・ベイビーズ」(1980)
悲しき熱帯」(1984)
69」(1987)
愛と幻想のファシズム」(1987)
5分後の世界」(1994)
半島を出よ」(2005)

 丁度私の大学時代に最初の三冊が上梓されており、かなり強烈なショックを受けた記憶があります。芥川賞を取った「限りなく透明に近いブルー」は当時の文壇からは拒絶反応をもって迎えられるほどの問題作ではありましたが、これ一作だけで終わってしまえば、彼は小説家としてではなく、今の田中康夫氏のようなスタンスでマスコミに登場するタレントでしかなかったかもしれません。彼を一流の小説家たらしめたのは「コインロッカー・ベイビーズ」を上梓できたからこそであったと思います。この本でもそのことが強調されています。ちなみにこの時点では龍氏が春樹氏をはるかにリードしており、私も「風の歌を聴け」を読んで「スカみたいな小説」としか感じなかったのを覚えています。

 年表を見ると「悲しき熱帯」以降はもう社会人になっており、悠長に小説なんぞを読んでいられるような生活でなくなった事が一因である事は間違いないと思います。
 それでもジョン・レノンの「マザー」の冒頭の鐘の音が熱帯の島に鳴り響き、老いたスーパーマンが空しい試みを繰り返す「「悲しき熱帯」や自伝小説的「69」は読んでいます。

 その後の年表を追っかけていくと、「トパーズ」(1988)「イビサ」(1992)等の、けばけばしく生々しいSM小説を彼が書きだした頃から生理的嫌悪感が生じて彼から興味が離れてしまったようです。
 そしてその頃に偶然読んだ春樹氏の「」の哀しみに興味を惹かれて後追いで彼を追っかけるようになり、俄然ハルキストへの道を歩みはじめたんだと思います。という事は年表で見ると、リアルタイムで読んだ初めての作品は「国境の南、太陽の西」(1992)という事になります。この小説が今でも自分の中でベスト1なのはその事もあるんでしょうね、これは新しい発見でした。

 ただ、今回この本を読んでみると、あれほど多作に見える龍氏にも、90年台には長く小説を離れていた時期があったらしいですし、「コインロッカー・バイビーズ」の系譜に連なる近未来シミュレーション小説「5分後の世界」「半島を出よ」といった「自分に合う」小説は読んでいますね。龍氏が時代とリンクしているキーとなる重要な本は一応読んでいるのだなということが分かって少しホッとしました。幾つかの未読の彼の本も読んでみようかなと思います。それ以上に待ち遠しいのが春樹氏の新作である事は間違いありませんが。

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2008/10/25

レコードコレクターズ増刊 ビートルズ名曲ベスト100

レコードコレクターズ増刊 ビートルズ名曲ベスト100
 皆様、先ずは25万ヒットありがとうございます。koyama師匠にご指摘いただくまで全然気がついてませんでした(大汗)が、有り難い事です。今後ともよろしくお願いします。
 さて、以前「あなたが選ぶビートルズベスト100」に応募した事を記事にしましたが、その結果発表の増刊号が出ました。とりあえずベスト10を見てみましょう。

1位  Strawberry Fields Forever
2位  In My Life
3位  Let It Be
4位  A Day in The Life
5位  Hey Jude
6位  While My Guitar Gently Weeps
7位  Something
8位  Help
9位  She Loves You
10位  All My Loving

1位は意外といえば意外でしたが、やっぱりジョン優位は揺るがず、ジョージが健闘していると言う印象です。

ワースト10位

1位  Revolution 9
2位  Yesterday
3位  You Know My Name
4位  Dig It
5位  Love Me Do
6位  The Long and Winding Road
7位  The Ballad of John and Yoko
8位  Flying
9位  Wild Honey Pie
10位  Let It Be

 1位はこちらもジョンでした。まあ現代音楽と言えば言えなくもないですが、「闇鍋」のようなホワイトアルバムを象徴するような曲ですからね。今から考えればあんなアルバムが良くもまああれほど売れたもんです。確かにジョンの曲にはムラが多く、7位のような曲もあり、ベスト、ワースト両方を賑わしても仕方ないでしょう。彼のような破天荒な天才と秀才的作曲家のポールが組んだからこそ奇跡の化学反応が起こった、と言うのがビートルズだったんですから。
 と、ここまでは納得ですが、2、5、6、10位は一体何で?と首を傾げます、ビートルズの代表曲で、音楽的にもワーストの要素がまるでない。。。「聴き飽きた」と言うだけで選んじゃいけないなあ(笑。

 ちなみにBEST100の方に私のコメントが載ってました、ビックリです。大分下位の方ですが、興味のある方は探してみてください。

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2008/09/11

Travels in the Scriptorium / Paul Auster

Travels in the Scriptorium
はむちぃ: 久々の洋書書評はこのブログではお馴染みのアメリカ現代作家、Paul Auster (ポール・オースター)のペーパーバックでございます。オースター様と言えば最新作「A Man In The Dark」が出版されたばかりでございますが?
ゆうけい: ども、ポール・オースターを語らせれば右に出るものは日本のブロガーでも十数名位はいるだろう、ゆうけいでございます。確かに最新作も早くご紹介しなければいけないんですが、昨年出版された「Travels in the Scriptorium」の紹介がまだでしたので取り上げてみました。
は: ここしばらくはカポーティル=グインの分析に追われておられましたからね。
ゆ: そうそう、で、随分読むのが遅れてしまったんだけれど、いやあオースターの野郎、やっちまったな~(^O^)
は: クールポコの師匠ですか、あんたは(;一_一)。
ゆ: いやいや、ホント久しぶりに

ポストモダンの不条理の居心地の悪さと後味の悪さ

が見事に蘇りました~(嬉。
は: またまたそんな否定的な表現で喜んで(-_-;)。なんか不安な書評になりそうでございますが、とりあえずペーパーバックの裏表紙の紹介から引用して参りましょう。

『「The Brooklyn Follies」の大成功に引き続き、ポール・オースターは陰鬱な謎解き小説を提示する: これは作者と読者双方を巻き込むゲームであり、言語と時間の独創的実験小説である。

一人の老人が殆ど何も無い部屋で目覚める。彼は自身の過去を思い出せない。彼のアイデンティティの唯一の鍵となるものは机の上の原稿、束になった写真、そして部屋に入ってきたアンナと言う女性。彼女により愛と悲劇の記憶が鮮やかに蘇るが。

現代アメリカ作家の中でも絶大な人気を持つ抜群のストーリーテラーの、記憶、老化、そして我々の責任に関する、素晴らしい新作ミステリーである。(ゆうけい訳)』

は: 作者と読者を巻き込む小説と言うところがいかにもポストモダンですね。
ゆ: オースターが昔のキャラで遊んでいる気がしないでも無いですけどね(^_^;)。
は: 確かに彼の初期作の重要登場人物が次々と出て参りますね。
ゆ: 上記の紹介文のアンナのフルネームがアンナ・ブルームと言えばオースターファンなら欣喜雀躍ですね。
は: その他にも、デヴィッド・ジマーピーター・スピルマン等々懐かしい名前が目白押しでございます。
ゆ: ですから、最低限

ニューヨーク三部作」「ムーン・パレス」「最後の物たちの国で

の三作くらいは読んでないと何の面白みも無い小説ですし、最後の謎もおそらく謎のままで終わってしまいますので、本当にポール・オースターファン限定の書評ですね(笑。

は: リンク先の「最後の者たちの国で」の書評でもポストモダン的構造について検討いたしましたが、今回はより重層的でございますね。
ゆ: そうなんですよね、箇条書きにしてみると、

1: 「Mr.Blank」と名づけられた健忘症の老人は過去のオースター作品の登場人物とおぼしき人たちに何らかの命令を下す立場だったらしい。
2: 殆どの場合その命令が悲惨な結果を招き、部屋の外の世界には彼を様々な罪で告発し死刑を求めている人々も多く存在しているようだが、部屋で老人に直接接する人物は敵意や憎しみよりもむしろ愛情や憐憫を感じているようである。
3: 過去作品の登場人物のその後の人生について、その人物自身が語る場面がある。
4: 老人はある書きかけ小説原稿を元に見事なプロットを考え出す。(小説中小説はオースターの得意技)
5: そして最後に発見したもっとも重要な原稿は「Travels in the Scriptorium」(by N.R.Fanshawe)であった。

は: 思いいれたっぷりに書いておられますがファンショーとは「ニューヨーク三部作」の一つ「鍵のかかった部屋」の重要登場人物でございまして、おそらくオースター様の作品中最も天才的な小説家でございます。
ゆ: やはりオースターは「鍵のかかった部屋」と「最後の物たちの国で」が好きなんですねえ、個人的にはどちらも大好きな作品なのでとても嬉しいです。

は: ところで、そのファンショー様が鍵となるこの小説のトリックでございますが?
ゆ: "It will never end." で始まる最後の一ページあまりの文章がその謎解きの鍵なのですが、やはりオースターだけあって単純明快な回答は出してきません。どう読み解くかを読者に委ねているようです。
は: 紹介文に「作者読者双方を巻き込む」と書いてある通りですね。ご主人様はどう解釈されたのですか?
ゆ: 正しい解釈かどうか自信は全くありませんが、最後の一ページはファンショーが書いた文章であると考えるほうが文章の筋が通る気がする気がします。そうすると"we"は作者と読者ではなく、これまでのオースター作品の登場人物たちと言う事になります。
は: とすると老人は、、、
ゆ: でしょうね。考えてみれば彼の作品でハッピーエンドというのは殆どありません。登場人物には常に悲劇的結末が用意されていました。その事に対する贖罪の意識がこの小説を書かせたのかもしれませんね。

は: とにもかくにもオースターファンの方にはとても魅力的な小説でございます。
ゆ: ペーパーバックで130Pと、彼にしては短い小説で彼の文体に馴れておられれば2,3日もあれば十分読めます。是非どうぞ。
は: 次ぎはいよいよ「A Man In The Dark」でございますね。
ゆ: これはゆっくり読ませていただきます。年内にレビューできれば早い方でしょう(笑。 

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2008/08/18

「あなたが選ぶビートルズ名曲ベスト100」

レコード・コレクターズ 2008年 09月号 [雑誌]
レコード・コレクターズ 2008年 09月号 [雑誌]
 ランキングものはやはり販売部数が伸びるのか、レコードコレクターズは7、8、9月号とビートルズを取り上げていました。いつも立ち読みでフンフン、で済ませていましたが、最後くらい買うかと言う気持ちに加え「あなたが選ぶビートルズ名曲ベスト100」の応募が載っていたので買ってみました。
 7~9月号の結果をベースに増刊号を作製中だそうで、読者のベスト100も特別企画として載せるそうです。 面白いのはワースト・ランキングも予定している事。で、早速応募してみました。

ベスト1位: 48 Any Time At All
選んだ理由: 小学校時代従姉の家で聞いて冒頭のシャウトにショックを受けました。ビートルズならびにロックへの目覚めでした。永遠に私の中でナンバー1の曲です。

2位: 96 In My Life
3位: 41 A Hard Day's Night
4位: 117 Strawberry Fields Forever
5位: 70 Help!
6位: 48 And I Love Her
7位: 1 Love Me Do
8位: 17 She Loves You
9位: 183 Come Together
10位: 179 Get Back
11位: 103 Eleanor Rigby
12位: 131 A Day In The Life
13位: 189 Here Comes The Sun
14位: 151 While My Guitar Gently Weeps
15位: 201 Let It Be
16位: 210 The Long And Winding Road
17位: 144 Revolution
18位: 124 She's Leaving Home
19位: 84 Day Tripper
20位: 82 Yesterday

ワースト1位:
167 Helter Skelter
勿論彼らがどうこうとか歌曲の出来とかではないのですが、やはり社会的事件になりましたし、ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」と並んで呪われている感じがします。

増刊号希望:
今号と同じくビートルズのソロ時代のアンケートもとって欲しいです。

と言うわけで、やっぱり初期のジョンが主導権をとってロックンロールしてる頃の曲が多いですね。多分相当上位に来るだろう「All You Need Is Love」は敢えて外しました。面白くないもん(笑。

 ついでにソロ時代のベスト10も選んでみました。カッコ内は4人のイニシャル、右側は今季号のレココレの結果です。

1位 God (JL)     Imagine(JL)
2位 Mother(JL)     Woman(JL)
3位 Love(JL)     Love(JL)
4位 Band On The Run(PM)     Another Day(PM)
5位 Imagine(JL)  (Just Like)     Starting Over(JL)
6位 My Sweet Lord(GH)     Band On The Run(PM)
7位 My Love(PM)     Jealous Guy(JL)
8位 Jet(PM)     Cold Turkey(JL)
9位 Power To The People(JL)     Love Comes To Everyone(GH)
10位 It Don't Come Easy(RS)     Silly Love Songs(PM)

 活動期間の短さを考えると、レココレの結果(50位まで)はジョン・レノン圧倒的に強し!です。まあ我々の世代に与えたインパクトが桁違いだったんで仕方ないでしょう。まあ私も人の事は言えませんが。でも一応4人とも選びましたし、ジョン5曲、ポール3曲、ジョージ、リンゴ各一曲と言うのはバランスがとれてるんじゃないかな(笑。

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2008/04/13

「物語の力」 / 村上春樹インタビュー

Harukiinterview
 先日の神戸新聞に4月6日から毎日曜日に「風の歌 村上春樹の物語世界」と言う新連載が始まるという予告がありました。地方新聞がメインのようですが、何はともあれハルキストにとっては朗報です。

 そしてそれに先駆けて9日からから三回にわたり「物語の力」というインタビューが掲載されました。聞き手は共同通信編集委員小山鉄郎氏です。ご覧になれないハルキストの為に三回の内容を簡単に箇条書きでまとめてみます。

第1回: 物語は世界の共通言語:僕の文体は日本語の日本語性によりかからない

「今長編を書いている、やたら長いのを」
「書く事は一に足腰、二に文体」
「年収の海外分が国内分を上回っていて、事務所の仕事も3分の2が海外分」
「言葉の違いはあっても魂の世界は世界共通で同じ世界、だから物語は文化の差を越えて理解され、神話に似通っているものが多いのではないか」

ハルキストにとってはやはり長編がいつ出来るかが気になるところ。「アフターダーク」のレビューで次は思いっきり長くなるはず、と予想したのが当たったのがちょっと嬉しいです。

第2回:普通の人々の声を力に:良心的な人が突然残虐行為を働く人間に日本人の怖さではと思う

「昨年亡くなった臨床心理学者の河合隼雄氏だけが、僕が「物語」という言葉を使って話すときにその意味をきちっと理解してくれた」
「人は自分の中にそれぞれの物語を持っているが魂の底にまで降りていくとその暗い部分から抜け出せない場合がある。そこからオープンな世界に戻ってこられない場合があり、それが物語の危険性だろう。『アンダーグラウンド』における実行犯達もそうであり、そのことはちゃんと解明しておかなくてはならない」
「良心的な日本人でも戦争中は捕虜を殺せと言われたらノーとは言わなかった。その事に対する日本人の本当の自省の念というのはまだ出てきていないと思う」
「一人一人は弱い人間でも多くの普通の人間の声が一つのボイスになるとすごい力になる。それがそういう世界へいかない力、そしてオープンな世界へ戻れる力となることを望んでいる」

先日レビューした「明日への遺言」と重複するテーマもあり考えさせられる部分もありますが、「アンダーグラウンド」の意図、河合隼雄氏への傾倒、どちらにもあまり共感できない自分にとっては違和感の多いインタビューです。

第3回:予想つかぬ日々、小説に:自省もせず乗り換える団塊の世代もまた典型的な日本人なのだ

「僕等の世代、すなわち団塊の世代は大学時代に理想主義を掲げ、信じもしていない革命闘争をやったような”いいとこ取り”をして、卒業したらさっさと企業戦士になりバブルを作り、それをはじけさせてしまった。そのような世代の一員として日本の戦後精神史の落とし前をつけないといけないと思っている」
「世界の冷戦構造が終結して平和がやってくると思われたのに、やってきたのは9.11に象徴される予測のつかない混沌とした世界だった。自分の書く小説はそのような次に何が起こるか分からない物語なので共感を呼ぶのかもしれない」
「今後自分が書きたいと思っている『総合小説』はいろんな人のいろんな視線があり、いろんな物語があって総合的な一つの場を作る、その為三人称でないと書けない」
「今書いている「やたら長い」小説が三人称かどうかは別としてポイントは『恐怖』、僕の重要な作品になる気がする」

 正直なところ私が好きな村上氏の作品には一人称小説が多いです(笑。ここで述べられている総合小説に最も近いのは「海辺のカフカ」だろうと思いますし、次回作もそのような方向性を持った小説になりそうです。それが壮大になればなるほど海外の評価は高くなり、ノーベル賞も見えてくるのかもしれないですが、、、とにもかくにも「ノルウェイの森」を頂点とした頃の極私的内向的な村上春樹に戻らない事だけは確かでしょう。

 来年は還暦を迎える村上春樹氏のインタビューの最後の言葉を引用しておきます。

「でも枯れたくないですね。『悪霊』を書き、さらに『カラマーゾフの兄弟』を書いたドストエフスキーのように年を取るごとに充実していきたい」

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2008/04/08

ゲド戦記(4) TEHANU

Tehanu
Cover of first edition (hardcover), from Wikipedia

 申し上げるのも多分これで最後でございますが(笑、原作に関しても映画に関してもネタバレが多々ございますのでご了承ください。

第四話:Tehanu(1990)、邦題:帰還-ゲド戦記最後の書-(1993)

 この第4話は、20年近くの時を隔てて書かれましたが、時間的には第三話「さいはての島」終盤と重なった時期のゴント島で物語は展開します。

 ゲドの師オジオンに預けられたカルガド人女性テナーオジオンを尊敬はしていましたが、自らの意思で魔法使いの道を捨て、結婚・出産という一般女性として生きていく道を選びます。フリントと言う裕福な農夫と結婚しゴハという通り名を得て二児をもうけ幸せに暮らしていましたが、時は流れ彼女は一人暮らしの未亡人となりました。その当時ゴント島は治安が乱れており、流れの盗賊団が島を荒らしていました。そのようなある日盗賊団の親に焚き火に放り込まれ捨てられていたところを危うく救われた少女テルーテナーは引き取とることになります。

 その一年余り後オジオンから至急の 呼び出しがあり、テルーと二人で家を訪ねるとオジオンは死の床についていました。オジオンは寿命が尽きるまでの僅かな時間に

「自分の真の名前はAihal」
「テ ルーを皆が恐れるようになるだろう、教育せよ」
「今全てが変わった」

と言う遺言を残し息を引き取ります。この「全てが変わった瞬間」と言うのはおそらく第三話でゲ ドが死と生の境の扉を締めた瞬間だと思われます。

 そして喪に服している時期に、第三話の最後でゴント島に向け飛び立った竜カレシンが飛来し、テナーカレシンの背に乗せられたゲドに再会します。ゲドは衰弱しきっており、亡きオジオンの家でテナーたちの懸命の介抱を受けようやく体力を回復しますが、全ての魔力を失っており普通の人間となっていました。それを恥じる彼はレバンネンの戴冠式での戴冠の役目を依頼に来た使者を頑なに拒み、大慌てで島の奥に隠れてしまいます。魔力を失った人間であること を恥じる彼をカルガド人であるテナーは理解できませんでしたが、村の魔女Mossに魔法使いの男について色々教わり、ある程度納得します。

 一方島の大領主の屋 敷には永遠の生命を欲する領主の依頼で魔法使いアスペンが派遣されていました。アスペンオジオンの死後の処置を巡る諍いからテナーを目の敵にするようになり、ついに はテナーに邪悪な呪いをかけてしまいます。危機に陥ったテナーテルーは一旦は偶然巡り会ったレバンネンの助けにより実家に戻ることができましたが、ある夜テルー の父親の襲撃を受けます。危うい所を隠れていたゲドに助けられ、それが縁でついに二人は結ばれ、結婚することになります。再び幸福な日々が訪れたテナーでしたが、彼女はま だアスペンの呪いが解けていないことを忘れてしまっていました。そしてある日ついにテナーゲドアスペンの罠に落ち、二人は断崖絶壁から突き落とされそうになる という絶体絶命の危機を迎えてしまいます。。。

 ル=グイン女史のフェミニズムへの傾倒が書かせた物語と言われ、その為主人公テナーは普通の人間としての道を選んだ女性であり、ゲドは既に魔法使いではなく、出てくる魔法使いは概ね敵役、とおよそ魔法ファンタジー小説らしからぬ構成となっています。もちろん小説としてはかっちりとした構成となっており、ネビュラ賞、ヒューゴー賞の常連であった女史ですが、ゲド戦記シリーズでは意外な事に初めてのネビュラ賞をこの小説で手に入れます。

映画に登場する人物:

Ged(Sparrowhawk): 第三巻の最後でカレシンに載ってゴント島に運ばれますが、本作ではその続きでテナーの介抱によ り助けられるところから始まります。しかし、もう大賢人の面影はなく普通の人間なので、なんとも卑屈で頼りない人間として描かれています。後半再登場して実は以前からテナーを好 きだったことを明かすところなど哀れな中年のおじさんという気がしないでもないですね。最後のテナーの危機に際してもなすすべなく一緒につかまってしまいます。結局 この本での彼の役割は

普通の人間の男としてのありのままの姿を見せる

ところにあるのだとおもいます。

 というわけで映画で見られたような魔法使いとしての活躍や、敵魔 法使いとの戦いは一切ありません。これでは映画として成立しないので大賢人のままであるのは仕方ない、と前回申し上げましたが、そこまでしてもこの作品を舞台にしたかったのは結局テルーという存在に帰結します。

 一つだけ気になるのは原作の最後に覚醒したテルー(真の名テハヌ)が彼を「Segoy」と呼ぶところです。セゴイは太古の昔アースシーの島々を水中 から引き上げた大偉人です。果たしてGed=Segoyとしたル=グイン女史の真意は何だったのでしょうか。

TenarGoha): 第二話の主人公で、ゴント島のゲドの師匠オジオンに預けられてましたが、普通の女性としての道を選び未亡人となってゴハと呼ばれていました。テルーを育てているという設定は原作と映画で一致していますが、普通の女性の道を選んだ為、映画でみられるような魔法使いの仕事(薬の処方など)はしていません。

 また危機を助けられた船中でローク学院のMaster Patternerの予言

「次の大賢人はゴントの女である」

をあなたではないでしょうかと尋ねるレバンネン王に対し「それは私ではない」と否定しますが、これは原作にとっては非常に重要な暗示となっています。ただ暗示が暗示で終わってしまうところに本作の歯痒さがあります。

 なお第二話でも言及しましたが、テナーだけが白人に見えるのは美人に見せたかったからではなく、アースシー世界の中で少数民族のカルガド 人だけが肌が白いという設定ですので原作に忠実です。ただ、映画では民族問題には全く言及せず、白人であるル=グイン女史からみて他の主人公たちが有色人 種に見えないというのは不満だったようです。

 以上本作の本来の主人公ですが、映画ではあくまでも脇役に甘んじています。声優の風吹ジュンさんは悪くはないと思いますが、原作を知るものとしてはもう少し気品を出して欲しかったところですね。

TehanuTherru): アレンと並ぶ映画の主人公なのですが、同時に原作ファンが納得できない設定であるところもアレンとよく似ています。Therru(テルー)とは炎の意味でやけどと竜を象徴するダブルミーニングを持ちます。真の名Tehanu(テハヌ)は空に輝く「白鳥の心臓」という星の名前で、やがて世界の中心となる存在である事を象徴しています。人間の子供として生まれながら実は太古の竜カレシンの娘なのです。

 粗筋のところで述べたように(人間の)父親により火の中に突きおとされ大火傷を負って 捨てられていたという設定です。映画で顔の色が違う場所がその火傷の跡形なのですが、原作ではそんな生易しいものではなく、右の顔半分が原形をとどめず眼球は喪失し、咽喉も焼け爛れたため成長してからも掠れた 声しか出せません。右手の指も鉤爪のように変形しています。残った黒髪で顔を隠し滅多に人前に出ず、喋りもしません。

 更に拾われた時点で「6-7歳くらいだが2歳児くらいの体重しかない」との記述があり、映画のようにアレンと対等に話せる歳でも無く、ま してや歌でアレンを感動させたりできるはずもありません。そのあたりは原作と映画でかなりの乖離があり、原作ファンには納得できないところでしょう。失礼を承知で言いますが、あんな素人に声優をやらせるくらいなら喋らないでいて欲しかったと思う原作ファンも多かったのではないでしょうか。

 結局のところ映画スタッフは「実は太古竜カレシンの子供である」と言う設定だけを活かしたかったのでしょう。映画では彼女がクモに絞め殺されたかに見えた直後に覚醒し、ついに竜に変身しますが、原作では覚醒してカレシンを呼び寄せるだけで竜には変身しません。

 なお、前作でも少しだけ触れた本当に本当の最後の書、第五作「The Other Wind」の最後の最後でようやくテハヌが黄金の竜に変身するシーンが登場します。女史も彼女をなんとか竜に変身させたかったのでしょうね。ちなみに映画の変身シーンだけは女史も誉めています。

Lebannen(Arren): 第三話の最後で王に認定され、戴冠式を控えてゲドを探しにゴント島にやってきますが、その頃にはテナーも惚れ惚れとするような凛々しく礼節を わきまえた素晴らしい若者となっています。偶然にもある港町でテナーテルーを助け自船に乗せテナーの家のある港町まで船で送る役割を引き受けます。しかしテナーか らゲドが一緒に来る気が無いと知らされそのまま帰国してしまいます。よって映画とは全く異なり、彼は本作ではあくまで脇役の一人です。

Aspen: 映画の魔法使いは第三話で述べたクモがモデルであることははっきりしていますが、第四話の魔法使いは全く異なり、Re Albiの領主舘に招かれたアスペンという魔法使いです。彼がやったことで映画に出てくるのはゲドテナーを海に突き落とそうとするところだ けです。所詮ゲド戦記全体からみれば小物ですから、クモを蘇えらせた映画の設定は悪くはないと思います。

Kalessin: この竜は映画には出て来ないのですが、原作を語る上で欠かせない存在ですので簡単に説明しておきます。巨大な最古のドラゴンで古代語を話す人間とは会話が可能です。原作ではゲドレバンネンテルーテハヌの真の名を呼んでいます。第三話で死の国から生還した二人をローク島に運び、更にゲドをゴント島に運びます。それが第四話の冒頭につながるわけです。そして最後に娘テハヌテルー)の要請により再び飛来し三人を救うことになります。テハヌが一緒に帰ることを拒否したため、二人に彼女を預けるとの言葉を残し去っていきます。

映画に出てくる設定:
ゴント島: ゲドの故郷の島で師匠オジオンテナーテルーが住んでいます。ですから映画に出てくるテナーが住んでいる家はゴント島のは ずですが、ホートタウンと言う港町を描いてしまったためワトホート島と考えざるを得ないことになってしまいました。前回も述べたように、この点は原作ファンにはとても違和感があります。

 また、映画序盤でゲドが砂浜に打ち上げられた廃船や竜?の骨を検分しているうちに、野犬?に追いかけられているアレンに気づき助ける場面が出てきます。このような砂浜が本作のゴント島にあるはずはありません。
 ここまでお付き合いいただいた方ならお気づきと思いますが、これは西の果ての世界であるWest ReachのDragon's Run或いはセリダー島をイメージしていると思われます。ここまでアースシー世界を一緒くたにするとさすがに原作者も怒るんじゃないでしょうかね。

クモの舘: 邪悪な魔法使いの舘と言う設定で映画の見所の一つですが、これはジブリらしく細部までこだわってうまく描いていると思います。原作におけるモデルはAspenが請われてやってきたゴント島のRe Albiという街の領主館であると思われます。
 映画ではゲドアレンを助けようと侵入してつかまり、更にテナーは部下が連れ去って運んでくるという設定ですが、原作では以 前にかけておいた呪いが奏功して二人が捕まってしまいなす術もなく引っ張ってこられます。テナーなど何も考えられなくなり首輪をつけられ犬扱いされていると言うかなり性的 に際どい表現も見られ、むしろ映画の方が遠慮している印象さえ受けますね。

クライマックスの竜の出現: テハヌの項で述べたように、映画ではテルー(テハヌ)が変身しますが、原作では真の父カレシンが飛来します。テハヌとカレシンでは大きさも風格も全く違うはずですから、映画の竜がテハヌだとしたら、カレシンはあのクモの館以上の大きさがあるのではないかと思われます。それも見たかった気もしますね。
 設定としてはテルーテハヌ)がテナーの 元に残る点だけは守られています。映画ではアレンが贖罪の為故郷のエンラッド島へと去るわけですが、当然ながら原作にはそのような設定はありません。

 さて、何故人間が竜の子供として生まれたのか、あまりにも突然で突飛な設定の為映画の最後で戸惑う方も多かったと思いますが、ル=グイン女史は三部作の頃から既にその考 想は持っていました。竜と人間は太古の昔は同一であり、竜族と人間族が完全に分かれた四部作の時代においても時々竜の子供が人間として生まれる事はあ る、という設定なのです。

 以上のようにアースシーの世界観については当初から一貫した設定でぶれはなく第三話と四話の間には時間的には重複を含めた連続性があるのですが、実際には何度も述べたように20年近くの長いブランクがあり、ル=グイン女史自身の思想自体にかなりの変化が見られると言われています。

「フェミニズム色が強い」

と言うの が一般的評価ですが確かにそうだと思います。特に第一、三話ははっきりと男の物語と言ってよいでしょう。真の高級魔法を使うのは男であり、女の魔女(witch)は地域に根付いて薬の調合や失せ物 探しなどの低級魔法をするものとされています。
 第一話の冒頭で

「weak as woman's magic, wicked as woman's magic」

と言う諺がでてくるほどです。もちろん第四巻でも魔法使いに関してその位置付けに変わりは無いのですが、普通の人間女性および母性という存在の偉 大さを大きなテーマとしている点がそれまでの物語と全く異質な雰囲気を生んでいます。

 言ってみれば「ゲド戦記」という題名から想像するイメージから最も遠いところにあると言えます。それを映画化に際し、テルーを出したいがために無理に第 四話を舞台としたところに脚本構成の無理が生じたのは明らかでしょう。
 
 最後に一点だけ、映画とは直接関係ありませんが、原作の瑕疵について触れておきます。フェミニズムの追求に関して満足したル=グイン女史はこの作品を以ってゲド戦記シリーズの終了を宣言し、副題を「最後の書」と付けました。

 しかし、実際には余りにも多くの事柄が未解決のまま終わっています。テルーの将来、ゲドとテナーのその後、ローク学院のその後、特に空位となっているArchmageの人選、Master Patternerが予言した「ゴントの女」の正体、レバンネンの治世の成否、神殿を破壊されエレス・アクベの腕輪を持ち去られたカルガド帝国の動向、そして最も大きなテーマとして残された世界の均衡の回復。

 そのため、ル=グイン女史は「最後の書」と言う宣言を更に10年の時を経て撤回し、21世紀に入り

Tales of Earthsea(2001)、ゲド戦記外伝(2004)
The Other Wind(2001)、アースシーの風(2003)

という二作を上梓しようやく上記の疑問全てに解答を出します。ここに至ってゲド戦記は完全に完結したと言ってよいと思います。なお、ジブリの映画の副題が「Tales of Earthsea」となっていますが、この本とは何の関係もありません。

 映画スターウォーズ・シリーズでも最初の三部作だけで完結した方が良かったというファンは多いと思うのですが、それと同様にこのゲド戦記シリーズも、最初の三部作のままでそっとしておいた方が良かったのではないかな、と今回初めて第四話を読んでみて思わないでもありませんでした。

 以上でようやく(^_^;)四部作の解説と映画との比較検証を終えました。自分が予想していたよりはるかに長尺となってしまったため、結局映画のどこが良くてどこが悪かったのか焦点がボケてしまった感がありますので、次回簡単にまとめを書いてゲド戦記に終止符を打ちたいと思います。

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2008/04/07

ゲド戦記(3) The Farthest Shore

Thefarthestshore
Cover images from Bantam books 1975 paperback editions (art by Pauline Ellison).

毎回申し上げますが、原作に関しても映画に関してもネタバレが多々ございますのでご了承ください。

第三話:The Farthest Shore(1972)、邦題:さいはての島へ(1977)

 世界の均衡が崩れて魔法使いが次々と力を失う中、エンラッド王国の王子の息子アレンが父の命を受けローク島の魔法学院を訪れます。その長 (Archmage)となっていたゲドは周囲の反対を押し切り世界の秩序回復のため、彼と二人で世界の果てまでの旅に出る決意を固めます。ゲドの数々の冒険をともにしてきた船「Lookfar」でローク島を出た二人は、アーキペラゴ(アースシーの中心世界)を抜け、世界の果てと言われるSouth reachからWest Reachへ航海を続けます。様々な苦難の末たどり着いた群島(Dragon's Run)で彼等が見たものは太古の言葉を失い共食いをするけだものと堕した竜族でした。しかし太古の言葉を話す能力を保っていた竜王オーム・エンバーが飛来し、ある魔法使いが竜族を滅ぼそうとしていることを告げゲドに助けを求めます。魔法使いの力を失わせているのと同一人物であると確信した二人は世界の果ての島セリダーにたどりつき、島を追跡の末ついに犯人である魔法使いクモと対峙します。共に戦ったオーム・エンバーの最期の一撃で窮地に陥ったクモは生死の境の扉を開き死の世界(Dry Land)に逃げ込みます。それを追ってゲドアレンも死の世界へ足を踏み入れますが。。。

 これまでの三作の中で最もSFファンタジー&アドベンチャー小説の要素が強く、映画も多くのエピソードを流用している作品です。そしてゲド戦記は一旦ここで完結しその後20年近く三部作と呼ばれていたわけです。冒頭のカバーにもTrilogyという文字が見られますね。

映画に登場する人物:
Ged(通り名Sparrowhawk): この時点では壮年期~中年期(40-50歳くらいと学院の生徒が話しています)に達しており、世界の魔法使いの頂点に立 つArchmage(大賢人)となっています。その割りに南方から西方へ至る旅の途中であまり賢人らしくない行動が多い気もしますし、アレンを正しく導いて いるのかという疑問も若干あります。

 彼が真の力を見せるのは最後の死の世界でのクモとの対決です。クモが開いた生と死の境の扉を閉めない限り世界の均衡は回復しません。大賢人とは言えどたかが一人の魔法使い、出来るはずがないと主張するクモの目の前で、ゲドは全魔法力を駆使して成功します。しかし力を使い果たした為アレンにより生の世界へ引き戻された際には彼にはもう魔法使いではなくなってしまっていました。普通の人間になってしまった彼は大賢人の座を捨て世界平和をレバンネンに託し最古の竜カレシンに乗りゴント島に去ります。

 というわけで、映画の主な舞台である第四話の時点ではゲドはもはや魔法使いではなく普通の人間なのです。まあそれでは映画が成り立ちませんから映画でまだ大賢人なのは仕方無いですね。

Lebannen(レバンネン)(通り名Arren(アレン)): 第三話の実質的な主人公です。原作ではエンラッド王国の若き王族で、偉大なるモレド王の血をひいています。父は魔法使いの素質を 持つ王子ですが、彼自身には魔法使いの素質は無い設定となっています。父の命でローク島を訪れ、ローク学院で一目見た瞬間からゲドを尊敬します。

 既にここまでの段階で映画中最も論議を呼んだ彼の設定が大きく改変されていることがお分かりと思います。彼は父殺しなどしていませんし、影を生じさせたりもしていないのです。この事については前回検討しましたのでここでは割愛します。

 さて、その後旅の途中でゲドの行動を理解できず彼の無力さに不信感を抱くこともありましたが、結局彼への忠誠心を失う事は無く最果ての島へ共にたどり着きます。ゲドとともに死の世界にひきこまれますが、力を使い果たしたしたゲドを担いで「痛みの山」を乗り越えるという奇跡を成し遂げ、二人して生の世界へ戻ってきました。世界の均衡と秩序を取り戻し たこの遠征により、アーキペラーゴに平和をもたらすハヴナー王に認定されます。

 ここでアーキペラゴ世界の頂点に立つものが大賢人ゲドからハヴナー王レバンネンに移ります。大賢人とハブナー王の役割はちょっとローマ教皇(法王)とローマ皇帝を思わせるところがあります。実際の歴史ではこの両者には様々な軋轢がありましたが、ゲド戦記における大賢人ゲドは、アーキペラーゴ世界を統べるのは自分ではなく、長い間空位となっているハヴナー王が必要だと常々考えていた節があります。 

 第二話でエレス・アクベの腕輪テナーと共にハヴナー島に持ち帰った事により世界平和の回復の前提を整えたゲドは本作において、マハリオンの予言の実現をアレンに初めて会った瞬間から予感していたのかもしれません。この予言とは、ごく簡単に言うと最後のハヴナー王だったマハリオンが死の間際に

「暗黒の地を生きて通過し、真昼の遠き岸辺に達したものがわたしのあとを継ぐであろう。」

と言い残したものです。暗黒の地とはクモに引き込まれた死の世界、真昼の遠き岸辺とはセリダー島の事であるのは言うまでもありません。

 ちなみに映画の主題である第四話の時点ではすでにハヴナー王としての戴冠式前後で、一人で放浪はできるはずもありません。

Cob(クモ): ハヴナー島生まれの魔法使いでローク学院の生徒であった事もあります。邪悪な心を持ち、世界を征服し永遠の 生を手に入れる為生と死の境の扉を開ける魔法を会得し、死者を自在に蘇えらせる事ができるようになります。そこから世界の秩序均衡が崩れはじめ、人間界では魔法使いの魔力が失われていき、竜族では太古の言葉が失われていきます。セリダー島で瀕死の竜の一撃をくらい醜い姿が露になり死の世界に逃げ込みますが、死の世界で対峙したゲドが扉を閉じてしまったことにより決定的な敗北を知ります。怒りも嫌悪も悲嘆も失い唯の死者と化した彼は二人の元から去っていきます。

 映画では生と死の境の扉を開く魔法を探していることになっていますが、今まで述べてきたように既に彼は登場時点でそれを会得していますし、敗北後蘇える事もありませんでした。映画でゲドとテナーを海に突き落とそうとするシーンがありますが、これは原作では別の魔法使いで、第四話に登場します。

 それについてはまた次回検討しますが、その魔法使いよりはクモの方が映画で敵役にするには適していると思います。映画のラストで醜い姿が露になっていくシーンは、オーム・エンバーの一撃を食らった時のクモの状況を模していると考えられますが、なかなか巧く描いていると思います。ちなみに声優の選択の勘違いが目立つジブリですが、クモを演じた田中裕子さんだけはとても良かったと思います。やはり演技のうまい方は違いますね。

映画に出てくる設定:
エンラッド王国: アーキペラーゴの北方に位置する最も古い歴史を持つ王国で、その中でも最も有名な王がモレド王で、ハヴナー島に進出しアーキペラーゴ全体に初めて平和をもたらした賢王として尊敬されています。映画の冒頭ではエンラッド島内の王宮が登場し、王が凶兆に頭を悩ませているところを突然アレンに刺殺さ れます。この件に関しては既に検討済みですが、王宮の描写はさすがジブリで手馴れたものだと思いました。あえて言うともう少し地方色、民族色を強調しても良かったかもしれません。

Horttownホートタウン): 映画でゲドとアレンがたどり着く最初の港町です。原作では魔法学院のあるローク島の南方にあるワトホート島最大の港町で、原作でもこ の港町の描写はとても美しく、原作中でも最も生き生きと魅力的に描かれている町の一つです。映画でもこの港町は原作にかなり忠実に描かれており、作画チームは大変良い仕事をしていると思います。毎日がお祭りのような賑やかさ、魔力を無くした魔法使いの商売、ヘジアという麻 薬の蔓延なども見事に活写されています。

 この町でアレンが奴隷使いに捕まりすぐにゲドに救出されるエピソードが出てきますが、原作では映画と違い馬車ではなく奴隷船から救出されます。ですから原作では二人は直ちにこの島から離れ更に南を目指しますが、映画ではこの島にテナーやテルーやクモが住んでいて物語が展開していきます。第四作の舞台にホートタウンを無理やり入れたための齟齬なのですがゴント島とは場所も文化も全く違います。このあたりも原作を知るものには納得できないところでしょう。
 ただ、先ほど述べたように確かにこのホートタウンは無理してでも描きたい魅力に満ちているとは思います。

竜の共食いシーン: 映画冒頭でエンラッドの船乗りが目撃する印象的なスペクタクル・シーンで、このあたりはジブリの実力を遺憾なく発揮していると思います。この共食いは原作ではゲドとアレンが世界の西の果ての群島で目撃しています。
 もちろん、映画の設定から言ってそのシーンを挿入するのは不可能ですし、映画の導入部としてはまずまず悪くない設定であると個人的には思います。

世界の均衡の崩れと魔力の消失: 原作ではゲドが最初から見抜いているとおり明らかに一人の魔法使いの行為の結果です。具体的にはクモが生と死 の境の扉を開いてしまった事が原因なのです。ところが映画では彼は未だ扉を開ける方法を会得していないので、彼の責任にするにはやや矛盾があります。

 もっとも本作でのゲドとレバンネンの活躍によって世界の均衡の崩れは完全に解決されたわけではなく、21世紀になってからル=グイン女史が著した第五作「The Other Wind」に至ってようやくその全貌が明らかになります。

 というわけで70年代に三部作としてゲド戦記は一旦終了しますが、主人公たちとこの世界に様々な宿題を残しているとはル=グイン女史もこの時点では考えていなかったのだろうと思います。私も昔読んだころは完結篇として特に不満もなく、そのような批評も余り覚えはありません。20年近い歳月を経てもう一度筆を取ったのは彼女のフェミニズムへの傾倒であったようです。その第四話が映画では主な舞台となっており、次回検討したいと思います。

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2008/04/06

ゲド戦記(1)(2)

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(Ursula Le Guin, copyright © by Marian Wood Kolisch, free download permitted)

毎回申し上げますが、原作に関しても映画に関してもネタバレが多々ございますのでご了承ください。


第一話:A Wizard of Earthsea(1968)、邦題「影との戦い」(1976)

 アースシー世界の東北にあるゴント島にゲドは生まれました。貧しい鍛冶屋の息子で幼名はデューニーと言いヤギ飼いをしていました。ある日魔女の叔母から才能を見出され、鳥寄せの術を教えてもらい、ハイ タカと呼ばれるようになります。ある事件の後、島一番の魔法使いオジオンの元に預けられますが、彼に真の名前「ゲド」を教えたのはこのオジオンです。しかしオジオンの教えに飽き足らない彼は、相談の末ローク島の魔法学院に入学します。学院長の大賢人ネマールがその才能の凄さを見抜いたように、彼は順調に成長していきますが、ある夜虚栄心から学院が固く禁じている死者を呼び出す術を使ってしまいます。そして死者の霊と共に「」をも呼び出してしまい、その影に襲われ瀕死の傷を負います。影はネマール大賢人の全魔力・生命力を賭した術により一旦は撤退しますが、ゲドはその影にその後脅かされ続けます。しかし師オジオンの助言により、自ら影と対峙することを決意し、それからは逆に彼の追跡が始まりますが、影がゲドにそっくりの姿をしていると言う事実が徐々に明らかになっていきます。。。

映画「ゲド戦記」に登場する人物

Ged(ゲド): 幼名Duny、通り名Sparrowhawk(ハイタカ)
 もちろんこの小説全体を通じての主人公ですが、彼が完全な主人公であるのはこの第一話だけで、以後のシリーズではスーパーサブ(^_^;)的な扱いです。大賢人になるまでの話ですので第一話からは彼以外の登場人物は映画には全く出てきません。

映画に登場する設定

影との戦い: 映画ではアレンに託される「影」との戦いですが、上述したように原作ではゲドが第一話で戦うのです。この影は何を意味しているのでしょうか。原作ではゲドの慢心、虚栄心から出現していますので、偉大なる魔法使いになるために克服すべき心の闇、悪心を象徴しているものと思われます。一方映画でのアレンの影は、世界の均衡が崩れている証拠、或いは少年期の漠然とした不安と焦燥感を表現したかったようです。

 このように影そのものの負う意味が違うことは明らかであり、その点に異を唱える原作ファンは多いと思います。個人的には思想面はかろうじて許容範囲であると思いますが、行為面、特にアレンの父殺しは原作から大きく逸脱しており、その点が映画の最大の汚点であるという大方の見方には同意せざるを得ません。世界の均衡の問題にせよ、少年期の焦燥にせよ、説得力のある説明が映画の中でなされていないからです。

 ちなみに映画でゲドの顔の左側の色が違っていますが、あれは最初に出現した影に襲わ れてできた傷の無残な瘢痕なのです。魔法学院の最高レベルの治療を施しても回復するまでに何か月もかかり、その結果恐ろしい跡形を残しているという設定なのですが、映画のキャラクターデザインはあっさりしすぎていて、やや物足りない感はあります。また、第四話の主人公テルーの顔のやけども、ゲドに負けず劣らず悲惨なものなのですが、これも余りにもあっさりした描き方であり、この二人のキャラクターデザインは原作を知るものにとってはかなりの不満があると思います。

第二話:The Tombs Of Atuan(1971)、邦題:壊れた腕輪(1976)

 第二話はアースシー世界の中でも独特の文化と言語を持つカルガド帝国内のアチュアン島が舞台で、島内にあるアチュアン神殿のPriestess(大巫女)アルハが主人公となります。彼女は先代priestessの生まれ変わりとして幼小時に「食べられたもの」として名前を奪われ、女性と宦官しか存在しない隔離された墓所のある神殿の中のみで育てられ、「名無きもの」と呼ばれる太古神(実は邪悪なる暗黒)に仕えていました。しかしそこにある日、世界の均衡を回復するため「エレス・アクベの腕輪」の片割れを求めてゲドが現れます。神殿墓所地下の巨大な迷路に迷い込んだゲドを目撃してしまったアルハは最初彼を侵入者として殺そうとしますが、彼女の心は段々と搖れ始めていきます。ついに彼を信じる決意を固めたアルハは地下迷路最深部の宝物殿へゲドを連れていきますが。。。

 「少女の自己の回復と魂の解放の物語」(Wikipedia)でもあり、ゲドアルハの相互信頼が太古から存在する闇、悪の崩壊をもたらす物語でもあります。明と暗、光と影のコントラストの見事なゴシック小説であり、個人的には四部作の中で最も完成度の高い内容を持っていると思います。

映画に登場する人物
Ged(Sparrowhawk): この時点では壮年期に達しており、偉大なる魔法使いの証拠である、竜(ドラゴン)を御すことの出来るDragonlordとなっています。その割りにあっさりと迷路に閉じ込められてしまうのは、闇の力に判断力を奪われていたため、という説明がなされています。

 そのような闇の奥の宝物殿に何故「エレス・アクベの腕輪」の片割れが存在するのかということには長く複雑な物語があるのですが、映画には全く関係しないのでここでは割愛します。なお、もう一つの片割れは、第一話でゲドが影を追いかけている際、偶然ある離れ小島でカルガド帝国の王族の末裔であるそこの住人から譲られて持っていました。

 とにもかくにもゲドとテナーによりこの腕輪が修復され、世界の中央にあるハヴナー島に納められたことにより、100年以上の長きに渡り空位となっているハヴナー王が即位する可能性が出てきた、という設定は覚えておいてください。それが第三話につながっていきます。

Tenar(テナー)、Priestess名Arha(アルハ): プロローグにおいて既に実母にテナーと呼ばれており、神殿に連れて行かれてからは名前を奪われアルハと呼ばれていましたが、ゲドにより神殿から救出される際にテナーこそ「真の名」であると教えられます。

 つまり、幼少名が既に真の名で、アルハというのも巫女名ですから、通り名を持たないと言う不思議な扱いの女性です。これは魔法を信じず人々が魔力を持たないカルガド帝国独特の文化慣習なのですが、ル=グイン女史はその件に関しては実に30年以上を経た2001年に発表した「The Other Wind」でようやく説明しています。これは少し不親切すぎる気がしますね、あるいは第二作を著した時点ではそこまで深く考えておられなかったのかもしれません。

 なお映画ではテナーとしか呼ばれていませんが、その時点では結婚して未亡人となっておりGohaという通り名を授かっています。しかし、真の名を呼ばれてもかまわないカルガド人なので、映画中で誰からもテナーと呼ばれることに関してはそれ程問題はありません。

 なお第二話の時点では当然ながらカルガド語しか知らず、アースシー中心部(アルキペラーゴ)の言語ハード語は話せません。ゲドがカルガド語をある程度修得してやってきたので二人の間に会話が成り立っているという設定になっています。

 島から脱出後エレス・アクベの腕輪を二人でハヴナー島に届けたのですから、そこに留まれば一生尊敬されて暮らせるはずでしたが、彼女は喧騒たる都会・王宮を嫌ったためゲドによりゴント島の師匠オジオンに預けられます。島ではWhite Ladyと呼ばれていた事になっていますがこれは通り名で無く、肌の色が白かったから為と思われます。

 ル=グイン女史は明らかに人種問題もこの小説に込めていますが、映画ではその点に関しては全く言及していません。ちなみに髪の毛は黒色であると設定されていますが映画では金髪でしたね。

 このような複雑な経緯から浮かび上がって來る彼女の女性像とその内面的な成長の過程は、個人的にはゲド戦記全体を通じて最も魅力的であると思います。なお映画では魔法が使えるような設定ですが、大巫女=魔女ではありません。カルガド人には珍しく魔女の素質はあるのですが、結局彼女はその道を拒否します。長くなるのでそのあたりの詳細は第四話に讓ります。

映画に出てくる設定

テナーが

あの人が私を光の世界に連れ出してくれたのよ

とアレンに語る場面があります。先程も述べたように非常に完成度の高い小説なのですが、残念ながら映画ではこの一言ですまされてしまいました。個人的にはとても残念ですが、まあこれは仕方がありませんね。

 さて次回は最も冒険ファンタジー的要素の強い、そして映画にも多くのエピソードが採用されている第三話について検討したいと思います。

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2008/04/04

ゲド戦記の世界観

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Map of Earthsea from official website of Ursula le Guin, free download permitted)

 今回から「Earthsea Quartet(ゲド戦記)」の原作を検討していきたいと思います。あらかじめお断りしておきますが、原作、映画ともに重要な点もネタバレになりますのでご了承ください。

 まずこの世界の概要について検討したいと思います。幸い2001年に発表された「Tales of Earthseaゲド戦記外伝)」に詳細なアースシー世界の解説が載っていますので、それを参考に簡単にまとめてみました。またWeb上で参考になるサイトもありますのでここに掲げておきます。

ル=グイン 公式サイト(Mapあり)
Wikipedia: 「ゲド戦記

Earthseaの世界観
 舞台は多島世界・アースシーで、太古の昔Segoyという偉大な魔法使いが島々を海上に引き上げたのが始まりとされています。冒頭の地図がそれですが、詳細はル=グ インの公式サイトで見る事ができます。

 このアースシーの島々や広大な海を舞台とした、魔法使いゲドにまつわる物語がゲド戦記です。しかし「戦記」という和訳題名は適切とは言いがたく、戦争の記述は全くと言っていいほどありません。 第一巻の冒頭にゲドの故郷ゴント島にカルガド帝国の軍隊が略奪にやってくるシーンがある程度で、国と国との大規模な戦争シーンは全く出てきません。ドラゴンとの戦いもあるにはありますが、これも種族間の闘争ではなく個対個の戦いです。

 もちろん原題に「戦記」に該当する単語もありません。敢えて言うと「Deeds of Ged 」と言う伝承歌が時折出てきますが、これも戦記と訳すには無理があるでしょう。日本語版ではdeedは武勲(いさおし)と訳されているようです。

 世界三大ファンタジーの一つにあげられていることもあり、他の二本「指輪物語」「ナルニア物語」のようにCGを駆使した派手な戦闘シーンを映画に期待する向きも多いかとは思いますが、原作通りに映画化した場合そのようなシーンは全く期待できず、その点で映画化してヒットさせるには難しい面があると思います。

 リンク先にはTVドラマ化されたと書いてありますが、私は残念ながら見たことはありません。今回のジブリの映画でも最後の最後にやっと派手なアクションシーンが出てくるだけなので「冗長」と言う評価が多かったのだと思います。しかしそれでさえ、原作とはかけ離れた映画用に作られた対決シーンなのですが、この辺はまあジブリの苦労も理解できないことはありません。
 
Earthseaの魔法観
 ゲド戦記に出てくるWizard(魔法使い)とは概ねローク島の魔法学院を卒業したものを指し、それ以外のものは土地土地に根付いたまじない師でしかありません。魔法使いの才能は先天的なもので男女問わず生まれつきある者とない者に分かれます。しかしローク島で学べる高等魔術使いは例外なく男性であり、女性と交わってはならないという規律があります。このテーマに対する自問が20年の歳月を超えてル=グイン女史にフェミニズムを一つのテーマとした「帰還」を書かせることになりますが、映画ではこのテーマは全く無視されたまま「帰還」の舞台装置だけを拝借しています。

 真の魔法使いの駆使する魔法の最大の特徴として「真の名前」があります。映画はこの前提をそのまま借用しており、この前提を知らずに映画をご覧になった方には戸惑う点が多かったと思います。
 簡単に解説しますと、ドラゴン族の言語である太古の言葉が魔法の力を発揮するこの世界では森羅万象に「真の名前」が存在します。例えば主人公は、Ged(ゲド) が真の名で、Sparrowhawk(ハイタカ)が通り名です。ローク学院での修行の多くはこの真の名前を学ぶことにあります。
 それを知る者は相手を従わせることができるので、だから人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名で呼び合いますが、高等な魔法使いの中には相手の真の名前を直感で知ることが出来る者も存在します。
 ゲドもその例外ではなく、例えば第一巻においてゲドは生身では敵うはずのないドラゴンを、その真の名を呼ぶことにより金縛り状態にして交渉を成功させますし、真の名を分かち合ったVetchという友の妹の真の名を直感で当てて彼を驚かせ、更には「影」との最後の戦いでついに「影」の真の名を悟って呼ぶことにより影を消滅させます。

 こういう思想が中世西洋の黒魔術系にあったのかどうかは知らないのですが、私は日本の「言霊(ことだま)」思想を思い浮かべてしまいました。ル=グイン女史は西洋思想だけにこだわらない方なので、ひょっとしたら東洋の宗教思想に興味がおありだったのかもしれませんね。

 さて、個人的読後感としてこの四部作全体を通して感じるのは、アースシー世界の自然描写の美しさです。海に浮かぶ島々、海洋、山岳、農村、漁村、そして世界の果て、更には空、雲、月、星まで生き生きと描写されており、その描写が瑞々しい分、死の世界(Dry Land)の荒涼と静寂が恐ろしく、その対比を際立たせているように感じました。
 映画にもその自然描写の美しさは反映されていますが、舞台が極く限られた地域であるのが少々残念です。

 また、その自然の中での人々の営みも地域によって緻密に描き分けられています。民族による言語、容姿(特に皮膚色)、習慣の違いも詳細に描かれており、ル=グイン女史はアースシーが他民族世界である事を一つの大きなテーマにする事により、暗に現実世界での民族差別を批判をしているように思われます。
 映画ではその事については全く触れられていません。短時間の映画でそこまで描ききれない、という意見もあるでしょうけれど、例えばテナーを魔法使いだから白眼視されているという設定をするくらいなら、昔海賊行為を繰り返していたカルガド帝国から来た白い皮膚の女ということで差別されているという設定の方が原作にも近く、話に深みを与えたのではないかと思います。

 日本語版は岩波書店から出版されており、試しに神戸の市立図書館を検索したら殆どの図書館に「児童書」として収蔵されていました。ここまで検討してきたように児童書として死蔵しておくのはもったいない思想的内容を持っていると思いますので、映画で興味を持たれた方は地図を片手に是非読んでいただきたいと思います。

 以上で概論は終了し、以後3回に分けて四部作と映画の関連について検討していきたいと思っております。

 

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2008/04/03

ゲド戦記四部作 /Ursula Le Guin

The Earthsea Quartet (Puffin Books) (Earthsea#1-4)ゲド戦記
(左:The Earthsea Quartet(Penguin Books), 右:映画ゲド戦記(DVD))
 ちょっと古い話になりますが第三回文春きいちご賞第一位はスタジオジブリのアニメーション映画「ゲド戦記」でした。その記事を書いた時には「まだ見てないので個人的にはコメントを差し控える」と書きました。実はその映画を昨年体調不良でブログを休止している頃に観ておりました。確かに出来の悪い映画ではありましたが、一つだけ解せなかったのが何故宮崎吾朗監督ばかりが叩かれているのか(それも父にまで)と言うことでした。

 まず私が感じた映画ゲド戦記の欠点を挙げてみます。

1: 原作者ル=グインをも怒らせるほど原作を改竄した
2: 声優が下手すぎる
3: 主題歌があざとい
4: 作画能力が落ちている
5: キャラクターデザインがマンネリ

2、3、5に関してはスタジオジブリの長期的な構造的欠陥であり、責任はこの路線を推し進めてきた鈴木敏夫プロデューサーにあると思います。4は制作費抑制のため海外に作画をアウトソーシングするというアニメ界全体の構造的問題でしょう。

 問題は1です。まず原作者ル=グイン女史との交渉はプロデューサーの責任だと思いますし、映画のエンドロールでは原案は父でジブリの顔である宮崎駿の「シュナの旅」であると明記されています。これだけの制約を受けて息子吾郎は一体何が出来たと言うのでしょう、ずばり鈴木敏夫と宮崎駿の責任ではないでしょうか?その責任を取ったのかどうかは知りませんが、鈴木敏夫は先日代表取締役を辞任しています。

 さてこれだけのことを書く以上原作をちゃんと知っているべきなのですが、残念ながら30年近く前の古い記憶しかなく、映画を観ても原作を十分に思い出す事が出来ませんでした。その事がずっとひっかかっていたのですが、去年の年末「Breakfast at Tiffany's」を読み終わった頃、本屋で次の英語ペーパーバックを物色していて偶然「The Earthsea Quartet」が目に入りました。これも何かの縁だと思い購入して年末から読み始めていましたが、何せ4本の小説がセットになっており700P近くあるもので正直大変でしたが、先日ようやく読み終わりました。

 私が映画を観て原作のストーリーをよく思い出せなかった最大の理由、それは第四部にありました。私の場合1970年台に読んだわけですが、実はその頃は「ゲド戦記三部作」だったのです。もちろんそれすら忘れていたわけですが(^_^;)。四編の題名を列記してみますと

第一部: The Wizard Of Earthsea(1968) 影との戦い(1976)
第二部: The Tombs Of Atuan(1971) 壊れた腕輪(1976)
第三部: The Farthest Shore(1972) さいはての島へ(1977)
第四部: Tehanu(1990)  帰還(1993)

私が全く知らなかった第四部が映画の舞台であり、それに一~三部の美味しいところをつまみ食い的に採用し、更には原作には全くない設定も加えられているため、私を含め往年のゲド戦記ファンにはかなり奇妙に思える映画が出来上がってしまったわけですね。

 ただ、それにしてもきちいご賞一位を取るような映画ではないと思いますし、宮崎吾郎の悪評はひどすぎる気がします。ゆうはむ映画レビューは面白おかしくがモットーではありますが、雰囲気や伝聞だけでけなす事はしないということを心がけているつもりです。そこでこれからしばらくの間、この原作を検証してみることにしました。興味の無い方には退屈かもしれませんがしばらくお付き合いくださいませ。

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2008/03/19

アーサー・C・クラーク氏を悼む

地球幼年期の終わり (創元推理文庫)イルカの島 (創元SF文庫)
 SF界の巨星堕つ!アーサー・C・クラーク氏が心臓発作で死去されました。心よりご冥福をお祈りします。

「地球幼年期の終り」「銀河帝国の崩壊」「宇宙島へ行く少年」「星の砂」「海底牧場」「渇きの海」「イルカの島」「楽園の泉」「遥かなる地球の歌」「2001年宇宙の旅」。。。等々、巨匠と呼ぶにふさわしい作家でした。代表作と思う作品を一つあげろと言われたら、やはり「地球幼年期の終わり」でしょうね。オールタイムベスト1にあげられることも多い作品ですが、日本人である私にとっても宇宙人の姿や人類の未来像は衝撃的でした。こういうのをSFと言うのか、とSFの奥深さに感動した覚えがあります。

 以前「夏への扉」で紹介したハインライン、アシモフとともにビッグ3と呼ばれていましたが、他の二人と違って海洋に対して造詣が深く、ダイビングを愛されていた事が、ダイビング好きな私には印象に残っています。だから、彼にとっては小品に過ぎない作品ですが「イルカの島」が彼の膨大な作品群の中でもとりわけ好きでした。

 そのダイビングで訪れたスリランカに移住され、そこで天命を全うされたとのことで幸せな人生だったのではないでしょうか。合掌。

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2008/03/15

ティファニーで朝食を / 村上春樹訳

ティファニーで朝食を
 去年随分カポーティにこだわって記事を書いていましたが、最後の記事が「ティファニーで朝食を」でした。その記事の中で翻訳が古くなっているので、村上春樹氏か柴田元幸氏あたりが新しい翻訳を出してくれないかな、と書きました。ところがなんと本当に村上春樹訳のティファニーが出ました。AMAZONから予告がきた時には本当にびっくりしたともに大変に嬉しかったです。早速予約注文していたのですが、先日届き、その日から原著片手にじっくりと再読しました。

 いつも思うことですが、村上氏の翻訳は平易な文章を用いた柔らかい語り口が特徴だと思います。これは簡単なようで難しいんですよね、試しに自分でやってみて良く分かりました。逆立ちしてもこれだけ分かりやすくて無理のない日本語の文章を連ねていくことは出来ません。氏の重要視している「リズム」がちゃんと保たれているところにも感服します。

 今回ももちろんさらさらと簡単に訳しているわけではないでしょうけれど、「グレート・ギャツビー」に比べると楽しんで軽快に仕事をされているように感じます。例えばホリー・ゴライトリーの語り口やブラジル人のこなれていない珍妙な英語の訳し方などにそれを感じました。特に印象に残ったのは、あるブラジル人が自分の従兄弟のことを「she」と表現するところ。あまりに不自然なのでひょっとしたらミスプリントかなとさえ思っていたのですが、村上氏は「あれ」と訳されています。やっぱりheとsheの区別がついていないんでしょうね、面白い訳し方でした。

 自分が幾つか誤解していたところや、どういう意味なのかが分からなかったところもすっきりとすることが出来ました。たとえば主人公がホリーにサンオイルを塗りながら自分の作品をけなされて腹を立てるところ。ホリーに

"You will be if you hit me. You wanted to a minute ago: I could feel it in your hand; and you want now."(最初の文章は「すまながるのは私をぶってからにしたら」と言う意味です)

と煽られて次の文章が

「I did, terribly」

となります。このdidの解釈なのですが、ぶったのか、ぶとうと思っただけなのか、このすぐあとに、

「ここからドアまで歩いてだいたい4秒かかるんだけど、それをきっかり2秒で行ってちょうだいね」

というホリーの名文句が入る場面ですのでこのあたりの解釈は重要です。個人的にはああぶっちゃたんだなあ、と思っていたんですが、村上訳では「 did=want 」でした。前後関係をもう一度じっくりと読みなおし納得しましたし、よく考えたらカポーティがそんな野暮なことは主人公にさせませんよね。その他にもFat Womanって一体誰なのか(実は死神のことなんですよ、ホリー独特の表現です)とか、いくつかのもやもやがすっきりしました。

 そして村上ファンには嬉しいのがあとがきです。氏は自分の作品には一切あとがきをつけないんですが、翻訳には丁寧な解説をつけていただけるので楽しみにしています。今回も楽しませていただきました。私もそうであったように、村上氏も映画の瑕疵を認めたうえで

「映画は映画として面白かった。あの時代のニューヨークの風景がとても美しく楽しく描かれていた。」

と感じておられたと知り、大変嬉しく思いました。

 最後に一点だけ、フレッドが兄なのは幾つかの事実からそれが正しいのだと思いますが、ホリーの愛し方は弟に対するもののように思えてならないんですよね。

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2008/02/25

カラヤンとフルトヴェングラー / 中川右介

カラヤンとフルトヴェングラー (幻冬舎新書 な 1-1)
 どるさんやkoyamaさんのリクエストには「誠に残念ながら」お応えできませんでしたが(笑)、せめてものお詫びにクラシック本ネタをお贈りします。ステレオサウンドの広告には時として本記事よりも面白いものがあるのですが、その一つにベーレンプラッテというクラシック輸入盤専門ショップの「LP GUIDE FOR AUDIOPHILE」というエッセイがあります。 去年の163、164号には、金子学さんという店主?さんの

「日本で最も有名なオーケストラ ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(上)(下)」

という文章が載りました。覚えておられるオーディオファイルも多いと思いますが、フルトヴェングラーカラヤンチェリビダッケの3巨匠の関係が第二次世界大戦前後の政治情勢を背景に簡潔にまとめられており、結構興味深く読みました。そこでもう少し詳しく掘り下げて調べたくなり、この本を読んでみたわけです。

『クラシック界最高の名声と金そして権力が集中するベルリン・フィル首席指揮者の座。ナチス時代、その三代目に君臨する巨匠フルトヴェングラー。彼は誠実な音楽の僕でありさえすればよかった、比類なき才能と野心をもった青年カラヤンが現れるまでは―。嫉妬の炎を執拗に燃やし詐略をめぐらす巨匠、巧みに抗うカラヤン、そこに巨匠を慕う無名の田舎音楽家チェリビダッケが加わり、争いはさらに複雑になる。クラシック黄金時代の美と欲望のドラマ。(帯より)』

 クラシックジャーナルに著者が柄谷淳三郎の筆名で連載した「ベルリン・トライアングル」をベースに全面改稿したのがこの本です。膨大な資料をよく整理して客観的に事実を述べていくというノンフィクションのお手本のような文章ですが、これが実にスリリングで面白い。フルヴェン、カラヤン、チェリビダッケという3人の強烈な個性に負うところも勿論大きいのですが、ヒトラー、ゲッペルス、ゲーリングといったナチの大物との関係、戦後の非ナチ化や汚名、ユダヤ人音楽家の反感などが克明に描かれているところも興味深いです。冒頭に述べたエッセイ程度の知識は漠然とは持っていましたが、歴史に翻弄された彼らの実像をはっきりと知ることが出来て勉強になりました。

 しかしまあそれにしても、向こうの人たちの人物の好き嫌いは激しいですね。この辺が肉食・狩猟民族と草食・農耕民族の違いでしょうか(笑。私たちの研究分野での巧妙争いでもそうですが、音楽の最高峰指揮者ともなれば熾烈を極めております。帯に抗争の三角形という図があって非常に分かりやすいので出来るだけ写してみます。

フルトヴェングラー(1886-1954)三代目首席指揮者、生粋のドイツ人

  激しい嫉妬 ↓  ↑ 表向きの尊敬

カラヤン(1908-1989)新進気鋭のオーストリア人若手指揮者

     抹殺  ↓  ↑  軽蔑

チェリビダッケ(1912-1996)

     忠誠  ↓  ↑  猜疑心

フルトヴェングラー

 まあ正直なところフルヴェンに抱いていた伝説的な名指揮者としての偶像崇拝は音を立てて崩れ去りました。強烈な嫉妬心猜疑心もさることながら、今で言うKY(^_^;)の典型だったようです。それもスケールが違う。例えば周囲から見ればナチの広告塔そのものであったにもかかわらず、

「自分はナチに協力した覚えは無く、むしろ抵抗してユダヤ人音楽家も擁護したのに何故非難されねばならないのか」

と、生涯自分が歴史に果たした役割を理解できなかったようです。確かに気の毒な面はあるのですがそれくらいの現状認識はしないとね~。

 オーディオファイルとしては、フルヴェン、カラヤン二人の、新しく登場した記録メディア(SP、LP、CD)に対する順応の仕方も興味深かったです。この分野では圧倒的にカラヤンが優れており、そのアドバンテージを最大限に活用してクラシック界の帝王にのし上がっていったのは皆さんご存知だと思います。ところがデジタル時代が成熟してくると、どんどんリマスタリングの技術が革新され、フルヴェンの古いライブ演奏が見事に蘇り高い評価を得るようになります。カラヤンにとっては思いもかけないどんでん返しでした。
 著者はそれを「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事になぞらえています。この比喩が適切かどうかは賛否両論あると思いますが、二人が孔明仲達を持ち出しても大げさではないほどの大物であることは間違いなかったと思います。

 比べるのも気の毒ではあるのですが、クラウディオ・アバド、サイモン・ラトルという5、6代目って欧米ではどう評価されてるんでしょう、少なくとも帝王ではないですよね。民主主義社会の成熟は英雄を必要としないのかもしれません。

 小物と言えばこの著者、「松田聖子と中森明菜」という本も書いています(爆。

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2008/01/30

生物と無生物のあいだ/福岡伸一

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
 「モスラの精神史」を紹介したついでに、話題の新書をもう一冊紹介しましょう。分子生物学者の福岡伸一先生の「生物と無生物のあいだ」です。既に30万部を突破しているそうで、サイエンスものの新書としては驚異的な売り上げなんではないでしょうか。

『読み始めたら止まらない極上の科学ミステリー。
生きているとはどういうことかー謎を解くカギはジグソーパスルにある!?
分子生物学がたどりついた地平を平易に明かし、目に映る景色をガラリと変える!』

 以上は帯の煽りで、更にはよしもとばなな、最相葉月、茂木健一郎、内田樹と言った方々が惜しみない賛辞を送っています。何ぼなんでも煽りすぎでしょう、と言うのが一応プロ(笑)の実感ですが、確かに生物、生化学、分子生物学などの知識があまり無い方でも生命の不思議が次々と解き明かされていくプロセスに知的興奮を覚えられると思いますし、難しい記述に疲れてきた頃には現実の研究者残酷物語の術懐が挿入されたりしていて、飽くことなく面白く読み進められると思います。

 個人的には題名から推測してプリオン病に関する新しい知見が盛り込まれていると期待していたのですが、実は「生命」の根幹である「自己複製」についてのレビューとなっていました。殆どが既知の事実だったので多少は損した気分にもなりましたが、苦節ウン十年、高校の生物から大学の生化学の講義、研究生活での何十冊と言う教科書、何百というペーパー(論文)でようやく理解した事柄が、実は新書サイズの本に詰め込める程度のものだったという事実が判明したのは収穫でした。→ここで池野めだか師匠みたいに泣く(笑。

 冗談はさておき、まあそれくらい良くまとめられているということなんですけど、思い起こせばこの様な本は同じ講談社が昔からブルーバックスで何冊も出してきたはず。この本がこれだけのベストセラーになった背景には、前記事でも触れた「世界一受けたい授業」などの、一般の方々に専門知識を平明に教える「知」のブームの影響があるんでしょうね。

 文章がうまいという賛辞が多いのですが、確かに自らの思い出についてかなりのこだわりを持ってページを割き、それなりの美文を並べておられます。率直に申し上げてそのあたりはやや自己陶酔気味で主題がぼやけている気がします。好意的にとれば科学者らしくない語り口が新鮮な感じを与えるのかもしれませんが、まあこの辺は好き嫌いが分かれると思います。

 一方で「研究者残酷物語」のエピソードなんかは本当にリアル(笑。私も一刻を争う世界最先端の研究現場に僅かな期間ですが身を置いたことがあるので、著者の苦労は本当に身をつまされる思いがします。自分には今の職業という「逃げ場」があったので彼らと同等の環境にいたとはとても言えませんが、実際臨床という退路を自ら絶ち、研究の道を選ばれた先輩もおられます。今は某KO大学の教授をされていますが、そう言えばその先輩からもこの著者と同じような愚痴を聞かされた事がありました。

 ところで科学者と言うと清廉潔白な学究の徒といったイメージがあると思いますが、この書にもあるように本当に偉くなっていく人はそんな枠には収まりません。例えば日本人でただ一人生理学・医学部門のノーベル賞を受賞した某T先生は、外国での研究生活時代、他人が回していた超遠心装置を勝手に止めて自分の検体を先回しにして激怒されたと言う実話があります。分かる人には分かると思いますが、超遠心を止めるって大変な事なんですよ。ちなみにその相手に

「自分の研究はノーベル賞クラスのものだから、クズみたいな実験をしている輩は譲って当然」

と平然と言い放ったそうで、これくらいのメンタリティが無いとこの世界では勝負できないんですね。もちろんノーベル賞を獲れなければただの嫌な奴ですが、実際獲ってしまうんですから(笑。

 勿論メンタリティだけの問題ではなく、世界最先端に伍していくにはそれだけの才能とセンスが必須です。私が研究人生をあきらめたのは正直に告白すると、このセンスが無い、と思い知らされたからなんですね。例えばこの文章を読んでください。

『細胞生物学とは一言でいえば「トポロジー」の科学である。トポロジーとは一言でいえば「物事を立体的に考えるセンス」ということである。(p191)』

なんでもない一文で、勿論この部分は比喩ではないのですが、そのまま研究で成功できる人の資質を表しているといっても過言ではないと思います。一つの実験結果から瞬時に物事の本質を「立体的に」推理できるセンスがないと最先端を争う世界では生きていけないのです。

 平たく言えばこの本を読んで

「生命の仕組みについてしっかり理解できたと満足」

するようではセンスは無いです。ノーベル賞を狙ってやろうという気概のある若い方は、課題を見つけ出し自分で解決してやろうと言う高い志を持ってこの本を読んでくださいね。

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2008/01/25

モスラの精神史/小野俊太郎

モスラの精神史 (講談社現代新書)
 akiraさんがブログで紹介されておられたので興味が湧いて読んでみました。「モスラ」と言えば私の世代にとっては幼少の頃に「人類の味方」として刷り込みされたかけがえの無い怪獣ですから「悪く言うと許さないぞ」みたいな(笑)感覚がありますが、果たしてどう評価されてたんでしょうか。

 まず簡単に映画「モスラ」についておさらいしますと、昭和36年(1961年)に公開された東宝製作の怪獣映画でした。時代背景としては60年安保闘争により日米関係がギクシャクしていた時期で、この本でも考察されていますが本映画にもその影を落としています。そのような時期ではありますがアメリカのコロンビア社との共作という華々しい話題をふりまいた、日本最初のワイド・スクリーンの怪獣映画でした。
 本作で初めて登場した怪獣モスラは、名前の如く巨大な蛾の怪獣で、幼虫期、繭形成期、成虫期と変身(メタモルフォーゼ)するのが特徴でした。他の怪獣と違い人類の庇護者としての性格を持つが故に大変愛された怪獣であり、ザ・ピーナッツ演じる小美人が歌う「モスラの歌」とともにその後の多くの作品で活躍しました。ちなみにゴジラ、ラドンと並び東宝三大怪獣と称されています。

モスラ

『なぜ蛾の姿なのか?
あの歌の意味はなにか?
ゴジラとどこが違うのか?
多くの謎が、いま解き明かされる!

プロローグ─モスラが飛んだ日
第一章 三人の原作者たち
第二章 モスラはなぜ蛾なのか
第三章 主人公はいったい誰か
第四章 インファント島と南方幻想
第五章 モスラ神話と安保条約
第六章 見世物にされた小美人と悪徳興行師
第七章 『モスラ』とインドネシア
第八章 小河内ダムから出現したわけ
第九章 国会議事堂か、東京タワーか
第十章 同盟国を襲うモスラ
第十一章 平和主義と大阪万博
第十二章 後継者としての王蟲
エピローグー「もう一つの主題歌」』

 目次を見れば大体想像がつくと思いますが、モスラ自体ではなく、映画「モスラ」を作ったスタッフやキャストたちの思いや経験を通してその時代背景を探っていく試みがなされています。その検討はかなり詳細で、学術的に深入りしているところも多く、漠然としかモスラをご存じない方には確かに目からウロコだらけだと思いますので、話題になるのもむべなるかな、と言う感じです。
 私の場合は一応怪獣オタクで、しかも親と祖父が映画館を経営していたという環境にいましたので大筋においては知っている事実の再確認のような作業でした。それでも細かい事実関係の四分の一くらいは知らなかったので、なかなか面白かったです。例えば悪役を演じたジェリー伊藤さんが、アメリカ側(コロンビア社)からは「アメリカ人らしくない」と評価されていたなんて記述にはびっくりしました。また、東京タワーの鉄骨の三分の一は朝鮮戦争の戦車から流用されたとは知りませんでした。このあたり最近の昭和ブームの折柄、貴重なトリビアかもしれませんね。

 さて、その精神史を語る際に特に焦点が当てられているのは、東宝の大プロデューサー田中友幸の元に集った「七人の侍」たちです。すなわち、

原作: 中村真一郎・福永武彦・堀田善衛
監督: 本多猪四郎
特技監督: 円谷英二
脚本: 関沢新一
音楽: 古関裕而

の7人です。ちょっと怪獣モノに詳しい方なら円谷、本多、関沢の三人の名前は一度は聞いたことがあると思います。田中氏とこの方たちこそ日本怪獣の生みの親であるのですが、彼らの本書に占める比重というのはあまり重くありません。ですからこの点に関してはあらかじめある程度の知識を持って読まれるべき本なのかなと思います。

 この本が話題になっている要因のひとつは当時気鋭の新進純文学作家3人がリレーの形で原案となる小説「発光妖精とモスラ」を書いていたと言う事実でしょう。これもSFファンなら古典SF発掘家ヨコジュンこと横田順彌の詳細な研究でご存知と思います。
 しかし著者はその表層的な事実だけでなく、彼等三名がどういう動機で参加したのか、そのバックボーンはどういうものだったか、またその時代そのものの状況はどうであったのか、そして田中や関沢等とどのような齟齬がありそれをどう克服していったのか微に入り細を穿ち検討されており、これには感心しました。怪獣小説といえばゴジラの香山滋くらいしかまじめに検討されていなかったと思いますが、あの時代に純文学作家がここまで有機的に怪獣映画製作に関わっていた、と言う事実を詳らかにしたことは賞賛に値すると思います。

 さて一方この本に対する批判として、牽強付会に過ぎるという意見が多いようです。確かに私もそう思わないでもありませんが、このような研究本を本筋がぶれないように書きとおす場合ある程度止むを得ないのではないかと思います。こんな大作でないブログでのレビューを書くときにだってそんなことってありますもんね。
 ただ一点、後継者として王蟲を挙げておられる点は、色んな論証を経ても正直なところ納得しかねます。モスラへの愛着が深すぎるせいかもしれませんが。

 愛着と言えば、私の目から見て著者は今一つ「モスラ」という怪獣には感情移入していないように思えます。ただ、著者の生年を確認してみてそれもむべなるかな、と思いました。著者は1959年生まれなんですね。1950年代生まれの人なら怪獣映画はリアルタイムだろうと思われるかもしれませんが、子供時代の一年、二年の差というのは大きいんですよね。この本に出てきた主要な映画の製作年をちょっとおさらいしてみましょう。

ゴジラ:1954年
ゴジラの逆襲:1955年
モスラ:1961年
キングコング対ゴジラ:1962年
モスラ対ゴジラ:1964年(春)
三大怪獣世界最大の決戦:1964年(冬)
怪獣大戦争:1965年
ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘:1966年

 親に聞いてみたら、私はモスラからエビラまで全部リアルタイムで映画館で見たそうです。でも記憶にはっきりと残っているのは「キングコング対ゴジラ」からで、ある程度内容も理解して観るようになったのは「モスラ対ゴジラ」からでした。それ故か、自分にとっての怪獣映画ナンバーワンは今も他を圧倒して「モスラ対ゴジラ」です。

Godzillashehhh ちなみに映画収入としてのピークは「キングコング対ゴジラ」が最高でその後は徐々に下降線をたどり始めます。折りしもテレビが映画を徐々に駆逐しつつあり、映画産業自体に翳りが見え始めた頃で、「怪獣大戦争」に至ってはゴジラがシェーをするという怪獣映画としては堕落の一途をたどり始めた時期でした。

 さて、私より少し年下の著者がリアルタイムで見ていたとすれば物心ついて内容を理解できるようになったのは、早くてもその「怪獣大戦争」の頃からかではないかと思います。これでは感情移入しにくいですよね。彼にとってはモスラも安保闘争と同じように、ごく僅かに乗り遅れた歴史上の出来事であり同じ研究素材であったのでしょう。

 時の流れの中で平成になり今一度モスラは蘇りますが、当然ながら私には昔のような心のときめきは無かったですし、作品そのものもあまり評価できるものは産まれなかったように思います。モスラはやはり「モスラ」「モスラ対ゴジラ」の二作品までで封印しておくべき古き良き日本映画のアイコンだったのかもしれません。その点に関しては著者もエピソードの項で強調しておられます。それを少しだけ引用してこのレビューを終わりましょう。

 『モスラ』から見えてくるのは、「組織」や「動員」という言葉がまだまだ実体を伴っていた五〇年代から六〇年代が持っていた人的つながりに由来する豊穣な生産力である。『モスラ』がさまざまな要素を抱えることが可能だったのも、その時代の産物だったからだ。
 ポストモダンと呼ばれた時代の到来で、こうしたつながりはしだいに消えうせていった。観客の側もいまでは映画館に行かずとも映画やアニメは観られるし、製作者も多くを下請けや孫請けにアウトソーシングしてしまい、作り手は各パートを担当するだけで終わるようになってしまった。(中略)かつて映画はスタジオ・システムのなかで互いの知恵を広く利用できた。そして、戦前のモダニズムの洗礼を受けた作家や映画製作者や作曲家たちが、一つの作品で互いに協力し影響しあう状況があったのだ。(P272より引用)

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2007/12/26

今年を振り返る(5)美術・書籍編

PLUTO 5―鉄腕アトム「地上最大のロボット」より (5) (ビッグコミックス)
はむちぃ: さて、皆様、クリスマスはいかがお過ごしでございましたでしょうか、ご主人様はあいも変わらず仕事に追いまくられておりますが、ヤフオクの出品が皆様のお陰で順調にさばけてるようでございまして、素敵なクリスマスプレゼントとなりました。
ゆうけい: ご協力いただき感謝感激雨あられでございますm(__)m。
は: ではいい加減疲れてきました佳境に入ってまいりました「今年を振り返る」シリーズ、本日は「美術・書籍」編でございます。先ずは美術展ですが、あいにくの体調の為今年は低調でございました。

山寺・後藤美術館所蔵 ヨーロッパ絵画名作展: 10/17
藤島武二と小磯良平展: 10/14
西村元三朗回顧展@小磯記念美術館: 1/14

ゆ: 山を降りりゃあすぐに観られる神戸ビエンナーレでさえ行けなかったのはかなり辛かったです(涙。それでも静かな山間の丹波まで「ヨーロッパ絵画名作展」を観に行けたのは嬉しかったですね。「小さな数学者」を始め、珍しい佳作も楽しめましたし。
は: ビエンナーレはお嬢様が行かれたようでございますね。
ゆ: シマウマのお尻を壁紙にしておりましたな(笑。

は: では、書籍の方にまいりましょう。

Breakfast at Tiffany's / Truman Capote: 12/05
のだめカンタービレ #19: 11/22
中原の虹 第四巻: 11/12
21世紀少年(上)(下): 10/05
The Door Into Summer / R.H.Heinlein: 10/03
Harry Potter and the Deathly Hallows: 09/26
中原の虹 第三巻: 06/12
のだめカンタービレ #17: 02/27
アメリカ西部開拓と日本人 / 鶴谷寿: 02/25
冷血 / トルーマン・カポーティ : 02/23
ミスター・ヴァーティゴ / ポール・オースター: 02/07
PLUTO 4 / 浦沢直樹: 1/19

本だけはどんなに体調が悪い時でもちょびちょびと読んでおられましたね。
ゆ: あのどん底の時期、ハリポタの最終巻「Harry Potter and the Deathly Hallows」 が無かったらどうなってだだろうと考えるだけ怖いです(^_^;)。いくつか辛口の批評もしていますが、ローリング女史には本当に感謝してます。
は: もうすぐ邦訳も出るようでございます。
ゆ: 何箇所か解せないところがあったので、これも楽しみにしてます。

は: 他の特徴としてはトルーマン・カポーティ様が多うございましたね。
ゆ: そうですね、映画「カポーティ」のフィリップ・シーモア・ホフマンの迫真の演技に圧倒されてからというもの、気が付けば本当に一年中カポーティにこだわってましたな。
は: 先ずはニュージャーナリズムの代表的小説「冷血」を復習されて映画に備えられ、冷血の日本人家族から鶴谷先生のご著書に思いを馳せられ、その後伝記「トルーマン・カポーティ」を一年近くかけて読破され、その勢いで「Breakfast At Tiffany's」の原書まで挑戦されましたわけですが。
ゆ: 見事なまとめありがたう、はむちぃ君。そしてその結果得た結論は

「やっぱりオードリー・ヘップバーンは良い!」

でございましたな(^o^)。
は: ご主人様、本筋からそれております(ボソッ(-.-)
ゆ: スマソ、カポーティの才能を再認識いたしました。

は: 邦文学の方はいかがでございました?
ゆ: 今年は村上春樹高村薫に大きな動きが無かったもので、浅田次郎先生の四部作「中原の虹」だけしか、私的にはネタが無かったですね(^_^;)。
は: ご主人様的には「中原の虹」の終わり方はご不満でございました。
ゆ: 張作霖をあれだけ魅力的に描いたのですから、せめて張作霖爆殺事件までは行って欲しかったです。首謀者とされる兵庫県佐用町出身の河本大作は、影も形も出てきませんでしたな(苦笑。まあそれにしても浅田先生は心底西太后に惚れていらっしゃるんですねえ、それだけはよ~くわかりました。

は: アニメはあいかわらず浦沢作品とのだめ、もやしもんでございますか。
ゆ: ま、そんなとこです、そろそろまた新しいレパートリーを開拓しなくっちゃね。それにしても「二十世紀少年」事件にしても、昨今の「デスノート」パクり事件にしても、ネットの力は恐ろしく強くなりましたね、ある意味漫画家受難の時代とも言えますな。
は: ハインライン様もそこまでは予見できなかったですね。
ゆ: 猫もジンジャエール飲んでびっくりしてるかもね(笑。

は: 冒頭のリンクは浦沢様の最新巻「PLUTO 5」でございますね。
ゆ: ヘラクレス、やられちゃいましたね、アトムの方は予想通りの展開というか、まあ原作があるから分かってはいるわけですが(笑。
は: アトムの産みの親天馬博士や、PLUTOを作らせたダリウス14世も本格的に話に絡み始めました。
ゆ: チョチ・チョチ・アババがあんなシリアスなキャラになるとは(爆、さすがゲジヒトをあれだけのキャラに作り上げた浦沢先生ですね。もちろん「ちび黒サンボ」が発禁になる時代ですから、時代とともに変化する価値観の相違も考慮に入れなければなりませんし、イラク戦争が影を落としていると言う側面もあるのでしょうけれども。
は: なにやら奥歯のモノの挟まった言い方でございますが(^_^;)?
ゆ: まあ、浦沢先生と同じアトム世代で原作やTVの実写版ドラマの頃から知ってものなら、「鉄腕アトム」という漫画はやはり特別な存在で、誰もが一家言持ってると思います。そういう意味では今回は解説の村上知彦先生が実に的確な評論をされておられますので、是非お読みいただきたいですね。
は: 今回はシリアスな終わり方でございました、次回は最後音楽編、月ラプ流グラミー賞の発表を予定しておりますのでよろしければお楽しみくださいませ。

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2007/11/12

中原の虹 第四巻

中原の虹 第四巻
 第一巻をご紹介してから一年、そして前作「蒼穹の昴」からは十年余の歳月を経て、清朝崩壊の壮大なドラマ「中原の虹」がついに完結しました。浅田次郎先生お疲れ様でした。

『そして王者は、長城を越える。龍玉と天命を信じ、戦いに生きる。英雄たちの思いは、ただ1つ。ついに歴史が動く。感動の最終章。浅田次郎の最高傑作、堂々完結!

「答えろ。なぜ宦官になどなった」
「将軍はなにゆえ、馬賊などにおなりになられたのですか」

最後の宦官になった春児と、馬賊の雄・春雷。極貧の中で生き別れた兄弟は、ついに再会を果たし、祖国は梁文秀の帰国を待ち望む。龍玉を握る張作霖。玉座を狙う袁世凱。正義と良識を賭けて、いま、すべての者が約束の地に集う。(AMAZON解説より)』

 今回も著者の十八番である感涙を絞る場面は多々登場しますが、やはり何と言っても李春雷(長男)と李春児(次男)、そして李春雷梁文秀(恩人)・玲玲(妹)夫婦との再会がハイライトでしょう。この兄弟妹は前作「蒼穹の昴」で極貧の果てに離散してしまうのですが、遥かな時を経て再会を果たすところでは涙が止まりませんでした。その舞台がはむちぃの故郷、アカシアの大連であったことも何かの因縁でしょうか(笑。

 今回新たにフォーカスがあたる実在の人物は宋教仁です。著者の彼に対する入れ込み方は並大抵のものではなく、あたかも同時代を生き彼に寄り添っていたかのような筆致には息を呑む思いがします。その人物を浅田ワールドの中に実にうまく溶け込ませているあたりもさすがの筆力で、彼を庇って凶弾に倒れる登場人物には著者万感の思いがこめられていると言って過言ではないでしょう。

 ただ、それが逆に本来の主人公である張作霖一派の存在感をやや薄めてしまったことも否めません。また第三巻で登場した蒋介石、そして「蒼穹の昴」のラストでちらりと顔を見せた毛沢東といった重要人物も本巻では登場せずじまいでした。

 更に、四部作において当然張作霖の北京侵攻失敗から爆殺事件までを描くのであろうと思っていましたが越過長城までしか描かれておらず、少し物足りないと思うのは私だけではないでしょう。越過長城を清王朝の成立と重ね合わせているところなど当然計算尽くではあるのでしょうけれども、浅田ファンとして贅沢を言わせて頂ければ中国近代史シリーズの続編があることを願って止みません。

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2007/10/26

ビートサウンドNo.9

BEAT SOUND NO.9 (2007)―ロック世代のサウンド・マガジン (9) (別冊ステレオサウンド)
BEAT SOUND NO.9 (2007)―ロック世代のサウンド・マガジン (9) (別冊ステレオサウンド)

 ステサンは毎号買っているんですが、ビートサウンドは正直なところあまり買ったことがありません。しかし最新号の「音の革命を起こしたロック・ギターアルバム100選」という特集に惹かれて買ってみました。

 100選には特段の驚きも無かったですが、掲載されているギターは垂涎ものばかりで目の保養にはなりました。私の好きなマーク・ボランは「SPACEBALL RICOCHET」という歌の中で

「僕はチビだけど、レスポールさえあればとにかく生活をエンジョイできるんだ」

と歌っていますが、この特集ではもう一つのトレードマークだったGibson USA V-Factor Xが掲載されていました。所謂フライングーVというやつで、60年代後期型を愛用していたようです。

 もう一つ読んでいてなるほど、と思ったのはLED ZEPPELIN時代のジミー・ペイジのギターの音の解説。ペイジ兄さんといえば何といってもGibson Les Paul 58、59年型ですが、ピックアップの改造やエフェクタやアンプでの色々な工夫で自身のサウンド、ひいてはハードロックサウンドを確立していきました。その詳細をコピーバンドで活躍しておられるギタリストジミー桜井さんが解説しておられます。

 例えば代表的なロックンロールナンバーの「Black Dog」。オリジナルの「IV」とライブ「狂熱のライブ」でのギターの音はずいぶん違って聞こえますが、ライブでは58年型レスポールに、トランジスタ型のエコープレックスEP-3トレブルブースターをかましてマーシャルのアンプに繋いでいるそうです。まあ、レスポールとマーシャルだけではあんなに野太くてオーバードライブのかかったような音は出ませんわね。ちなみにこの時のレスポールではピックアップの改造はしていないそうです。(その後に59年型のレスポールで改造が行われたとのことでした。)そのほかにもハイアットのA級動作アンプでの音の歪ませ方とか、色々面白い話が満載でした。

 また、この本はステレオサウンドの別冊なので、和田博巳さんがオーディオ関係の記事を色々と担当されているんですが、本号ではアナログプレーヤーの聞き比べが興味深かったです。私が今注文中のXERXES20に満点をつけられていたのは嬉しかったですね。もちろんロクサンユーザーの和田さんの贔屓目もあるんでしょうが、もう一人の音楽評論家の方も褒められていたので、ロックサウンドにベストマッチであるのは間違いないようで、納品が楽しみです。

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2007/10/03

The Door Into Summer / R.H.Heinlein

夏への扉 [英語版ルビ訳付] 講談社ルビー・ブックス
はむちぃ: 今回の書籍レビューはアメリカSF界の巨匠R.F.ハインラインの傑作「夏への扉」でございますね。
ゆうけい: 彼の最高傑作とこの本では紹介されてるけど、まあそこまでは行きませんね。ハインラインの膨大な作品の中では比較的小品で佳作と言ったところです。ただ、「瑞々しい純愛小説」「猫小説」としてSFファン以外の一般層にまでファンの多い作品ですよね、はむちぃには心臓に悪いだろうけど(笑。
は: 確かにそうでございます(>_<)。そう言えば猫好きのきっこ様もお気に入りだそうでございます。
ゆ: 彼女の決まり文句「ジンジャエール」はこの小説の主人公猫ピート(本名Petronius the Arbeiter)の大好物だもんな。

『ぼくらは、1970年12月、コネチカット州に住んでいた。猫のピートは、いつも冬になると、夏への扉を探す。たくさんあるドアのどれかが夏に通じていると信じ込んでいるのだ。そう、ぼくも夏への扉を探していた。婚約者のベルに裏切られ、仕事は取りあげられ、生命から二番目に大切な発明さえも騙しとられてしまった。そんなときだ、ぼくの目が「冷凍睡眠保険」に吸い寄せられたのは。ぼくは、猫のピートと共に、30年後に蘇る冷凍睡眠を申し込もうとする。そして、2000年の12月に…。』

は: ご主人様はSFファンでおられますから、もう昔に読まれておられるのでございましょ?
ゆ: はい、もちろん昔読みました。ちなみに初めて訳されたのは日本のSF界の礎を築かれた福島正実先生なんですよ。だから今回は再読で、粗筋は知っているわけなんですが、どういうわけか英語で読むと次はどうなるんだろうとドキドキしますね(^_^;)。
は: で、またどうして今頃それも原書で?
ゆ: オーディオファイルのDolonさんが講談社のルビーブックスと言う、ルビ訳のついたシリーズを次々読破されておられるので刺激を受けたわけですな。それにこの小説、1970年と2000年が舞台なんです。丁度この小説を初めて読んだ頃が1970年代だったんですが、その頃はるか未来だと思っていた2000年がもう過去になっている、それも興味深くってね。

は: 書かれたのは1957年と更に時代を遡るのですが、その頃に想像した未来と現実の2000年代を比較するのも確かに一興でございますね。実際如何でございましたでしょう?
ゆ: さすがに巨匠ハインライン、現在でも古さを感じさせませんね、大したものだと思いました。Module構成、CybernetCADと言った現在のコンピューター文化を極く原始的な形ではありますが既にこの小説の中で描いている事にあらためて脱帽しました。「バグ」という現在では誰でも知っているコンピュータ関連用語も頻出してますしね。同じ1950年代に時代を席巻したサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」でさえ、もう古典を読むように感じざるを得ないのとは対照的です。

は: タイムトラベルものの代表作と言う側面からは如何でしょう?
ゆ: 私がいつもSF関連作品で問題にするタイムパラドックスに関してもハインラインは積極的な論陣を展開した先駆者なんですね。ただ、この作品ではパラレルワールド的な解釈で整合性をつけようとしているんですがかなり無理がありますね。まあこの作品に関してはそんな堅苦しいことは抜きにして、胸キュン小説的に無邪気に楽しめばいいんだと思います。

は: さて、ルビ訳付きの英文は如何でございました?
ゆ: 最初は凄く違和感がありましたね、英語を読んでるのに和書を読んでるような変な感覚でした。受験参考書のように消してくれるセルロイドみたいなものをつけて欲しいくらいでした(苦笑。でも、途中からは慣れてきたし、この小説には企業関係の経済用語や法律用語といった私の苦手分野の用語が山ほど出てくるんで助かりました。

は: この前読んでおられたのがハリー・ポッターのクイーンズ・イングリッシュでございましたから、そういう意味での違和感もございましたでしょう?
ゆ: 全く別の言語のようでしたね(^_^;)。例えばハリー・シリーズでは「reckon」と言う単語が頻出するんですが、「夏への扉」では見事に一回も出てきませんでしたね。
は: 「考える」に近い「思う」というニュアンスの動詞でございますよね、米語では何が代替するのでございましょう?
ゆ: そうだねえ、幾つかあるんだけど「figure」あるいは「figure out」なんか良く使われていてやや近いニュアンスで使われてたんじゃないかな?

は: 感情表現や慣用句も随分違いますしね。
ゆ: 全く。暗めで沈思黙考型の英国人と陽気で皮肉好きでめげないアメリカ人と言ったキャラの違いが文章から汲み取れますよね。
は: 先ほどの「バグ」なんかも含めてスラングも多いですし。
ゆ: そうそう、ルビ訳で大体はイメージが湧くけれど、難しいのもありましたね。「Napoleon Factory」なんてどこ探しても「精神病院」なんて意味載ってなかったけどなあ。

は: まあそういう事も含めて古き良きアメリカらしい小説でございますね、皆様も是非どうぞ。
ゆ: 巨匠ハインラインさえ「未来は確実に良くなる」という夢を抱いていたところが微笑ましくもある、暖かさを感じさせてくれる作品です。邦訳で読まれた方も、今の時代にもう一度読んでみると新たな感慨が湧くと思いますので是非どうぞ。

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2007/09/26

Harry Potter and the Deathly Hallows

Harry Potter and the Deathly Hallows (Harry Potter 7)(UK)
(UK版ハードカバー)

 ハリー・ポッター・シリーズの第7巻です。全ての謎が明かされる最終巻であり、出版前夜は大変な騒ぎでした、あまりの人手にテロリストが自爆テロを中止したなんてニュースもありましたね。第5、6巻がかなり暗くて退屈だったのでいい加減飽きてきておられる方もあるかとは思いますが、そこはそれ、全ての謎が解決するわけですし、とにもかくにもこれで終了ですから読まない手はありません(^_^;)。

 結末と誰が死ぬのか(発表前の噂では二人)ばかりが注目されていましたが、実は最終巻で解き明かされなければいけない謎はもっと膨大なものでした。簡単にまとめておきますと

1: 主要登場人物にまつわる謎
2: 悪役の親玉Voldemortが魂を切り分けた7個のHorcurux(邦訳:分霊箱)とは一体何か、そして破壊方法はあるのか?
3: 今回新たに登場する3つのDeathly Hallows(邦訳は「死の秘宝」になる予定)の正体

1だけでも大変なのに2、3を単純に足し算すると10個ものアイテムを探さなくてはいけません。前巻までで判明しているものはごく僅かですから最終巻にかかってくる負担は相当なものになります。

 という事でやはり今回もハードカバーで600ページ超の長さになってしまっています。だから静山社の日本語版はおそらく今回も(上)(下)二巻になると思います。その点に関し一言言っておきますと、上巻では先ほど述べた点に関する解明は殆どなされずイライラするくらい話が進みません。私も約半分が過ぎた頃に、本当にあとこれだけの分量で謎解きできるんかいな?と心配になったくらいでした。
 でもご安心を、後半はめくるめく展開で全てのアイテムや謎が次々と解決していきますので息もつかせない面白さです。それはプログレ音楽における退屈なパートで溜めに溜めておいたエネルギーをラストで爆発させる手法に似ております、さすが大英帝国!(^_^;)

 まあその上でですが、ラストに関しては言いたい事はいろいろある(爆。という事で8月初旬に某所で書いたレビューをここに紹介させていただきます。

「 ローリング女史にはとりあえずお疲れ様でした、と敬意を表しておきます。今回もハードカバー版で600Pあまりの長編なので一ヶ月はかかるかと思ってまし たが約一週間で読み終えてしまいました。ここ一週間体調がdesperatelyに最悪だったので本を読む事くらいしかできる事がなかったと言えばそれま でなんですが、やっぱり率直に面白かったから、というべきでしょう。

まあそりゃそうで、ブリッジで伏線だらけで何も解決しないまま終わってしまう暗くて退屈な5,6巻に比べれば、全てが明らかになる最終巻がつまらないはずがありませんよね。

その上で敢えて言わせてもらえれば面白い割りに感動と余韻が少ない。まるでハリウッドのアクション映画のようです(笑。

ネタばれにならないように、あくまでも一般論としてハリウッド的アクション映画の欠点を列挙してみましょう。

『1:narrow escapeが多すぎる
間一髪の脱出が多すぎると、プロットとしてはスリル満点で面白いかもしれないが段々とリアリティが失われていく。確率的にはこいつらとっくにくたばっていて話が終わってるよなと思えてくるし、身の毛もよだつ恐ろしいオーラを放っていた敵がバカに思えてくる。

2:周囲に迷惑をかけすぎる
主人公たちの勝手な思い込みによって話は展開していくのだが、それにより周囲の無関係の第三者にかかる迷惑を全く考えていない。

3:どんでん返しをラスト近くで用意する
あらかじめ提示した前提を覆すのはある種不信感に繋がるし、話の整合性が微妙に崩れていく事が多い。

4:無駄なエピローグが多い
いかにもなエピローグをくっつけて続編を期待させるのは個人的には好きでない。』

念押ししておきますが、これは一般論でこの本の話ではありませんから(苦笑。

さて、御法川某が結末をばらしてしまったそうですが世間の結末に対する評価はどうなんでしょうね?実際発売前から結末にばかり注目が集まっていた ためローリング女史も相当悩んでいた節が終盤には多く見受けられました。上記3にも少し関係する事ですが、おそらくもっとすんなりと終わらせるつもりだっ たのじゃないかな、と言う気がしますし、個人的にはその方が余韻が残ってよかったのに、、、と思います。

というわけでラストには泣けませんでしたが、途中で一回だけ号泣しました。どこが、と言うのは伏せておきます。私にとってははむちぃを喪うようなショックでした(苦笑。

う~ん、ネタばれ厳禁のレビューはやっぱり難しいな(笑。結局ハリー、ロン、ハーマイオニーの成長とローリング女史の小説家としての成長が上手く シンクロしていた、3(アズカバンの囚人)、4(炎のゴブレット)巻あたりがこのシリーズの一番幸せな時期だったのじゃないかな、と思います。」

 最後に一つだけ、これ位のネタバレは許してもらえるだろうという事を紹介します。第一巻から延々とハリーを苛め続けては魔法でえらい目にあっていた超過保護の暴力息子ダドリー・ダーズリー君ですが、最終巻ではハリーもほろっとする位良い奴になってます。この展開に関してはとても好感が持て、ローリング女史に拍手を送りたいと思います。

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2007/09/25

空白の2ヶ月を振り返る(2)読書・映画・音楽編

Mozart: Piano Concerto No. 24; Schumann: Piano Concerto
はむちぃ: さて今回は読書・映画・音楽のカテゴリーを振り返ってみましょう。
ゆうけい: 3カテゴリーを一緒くたにしたのは、まあご想像通りあまりこなしてない事の証左でございます<m(__)m>

は: またまたしょっぱなから身も蓋もないことを(トホホ、することがないからはよく読んでおられるではございませんか?(-.-)
ゆ: まあそうなんだけど、あまり難しい本を読むと頭が痛くなるしな、自分の病気の勉強も忙しいし(爆。
は: まさしく泥縄じゃございませんか(嘆息。で、ネタにできるような本は無いんでございますか?
ゆ: そうだなあ、21世紀少年(上)はどう?
は: それは全てが明かされる(下)が出てからのほうがリーズナブルでございます。(-.-)
ゆ: う~ん、じゃあ「全てが明かされる」と言う事で、ゴキブリほいほい並みにベタベタですがハリー・ポッター最終巻は如何でせう?
は: Gotcha!、それで参りましょう。次回記事ではご主人様が某所でお書きになったHarry Potter and the Deathly Hallowsのレビューを掲載させていただきます<m(__)m>
ゆ: おおっ、はむちぃ、いつの間に英語まで(・_・;)?

は: では次に映画の方はいかがでございましょう?
ゆ: 街に出かけられないから新作は全く観られないし、ホームシアターでも激しく動く画面を観てると気分が悪くなるんで殆ど観てないんですよ~(涙
は: Blimey!、こればかりはいたし方ございませんね、ではスルーと言う事でよろしいでしょうか?
ゆ: おおっ、今度はクイーンズ・イングリッシュかい、かなわんなあ。まあ何にも無いのも寂しいから、ちょっと調子が良かった時に「ハッピー・フィート」だけ観たんでそのレビューを次々回の記事にしたいと思います。

は: ではちゃっちゃと音楽を済ませてしまいましょうか、あんまり聴いておられませんもんね。
ゆ: Come off it !はむちぃ君、気がついておらんようだが先日病院へ出かけたついでにひっっさしぶりにタワレコに寄ってきたのだよ、ふおっほっほ~。
は: なんか慣用句大会になってまいりましたね、存じておりますよ、ついでに阿倍野の「アニメイト」にもお寄りなさったでしょ!なんです、あの「NERV大浴場」とか書いてあったタオルは!?
ゆ: ひえ~、ばれてたか(>_<)、ま、あれは娘へのお土産と言う事で(^_^;)
は: で、CDは何をお求めになったので?
ゆ: 新作2枚、キーシンモーツァルト・ピアノ協奏曲24番&シューマン・ピアノ協奏曲(冒頭リンク)と小曽根真のソロを買いますた。
は: キーシン様といえばショパンや「展覧会」と言うイメージがございますが、モーツァルトとは新しい挑戦ですね。
ゆ: そうですね、私にとってもモーツァルトは新しい挑戦ですが。
は: クラの本丸でございますからね、で、ご感想は如何で?
ゆ: ステサンにレビューが載っていないので分かりましぇん(T_T)
は: またまたそう言う事を、例によって無料サンプル盤云々でございますか?
ゆ: いやいや、そこまでは言ってないぞよ、どうもこれはExtra CDなのがいかんみたいだな。
は: そうでございましたか、でも普通のCDPでもかかるんでございましょ?
ゆ: 勿論ですが、なにか音質悪そうで嫌ですね~。とは言え、さすがキーシンのピアノのタッチは素晴らしいです、サー・コリン・デイヴィスのバックアップも安心して聴いてられますね。しかしまあなんですねえ(コエぴょン風)、第一楽章なんか暗いですなあ、ほんとにモーツァルトかいな?シューマンのピアノ協奏曲のほうがまだ耳馴染みがあってよろしいな。
は: またまたクラファンを敵に回すような発言を(ーー;)、で、どうしてシューマンのピアノ協奏曲をご存知なんでございます?
ゆ: ウルトラセブンの「史上最大の侵略」で使われた事でオタクには有名なのだ。金城哲夫渾身の傑作ですからね~、ウルウル(T_T)。
は: はいはい、さすがに病気でもアニメイトに寄るだけのことはございます(嘆息。では皆様今日はこの辺で失礼いたします。

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2007/06/12

中原の虹 第三巻

中原の虹 第三巻
 浅田次郎氏の傑作「蒼穹の昴」の続編「中原の虹第二部から半年、いよいよ第三部の登場です。第一部の紹介時に書きましたが、本作品は全体で四部構想を予定しているとの事です。ですから、今回は起承転結の部分に当たる事になります。

『相次ぐ革命勢力の蜂起に、一度は追放した袁世凱を呼び戻す皇族。だが俗物、袁世凱には大いなる野望があった。満州では張作霖が、まったく独自の勢力を形成していき-。人間の強さと美しさを描く中国歴史小説、白熱!』(AMAZON解説より)

 第一部は、新しい主人公張作霖の紹介を通じて清と言う国の衰亡を、第二部では新帝「ラストエンペラー」溥儀の選定と西太后・光緒帝の死を描いてきたわけですが、転の本書ではいよいよ清の滅亡が描かれます。所謂辛亥革命ですね。
 といっても革命軍との衝突があるわけではなく、亡き西太后の遺志、袁世凱の策謀により、6歳の宣統帝溥儀が退位される様子が描かれるだけで、劇的な展開というのは今回はありません。孫文も直接は顔を出しませんし、蒋介石も一瞬顔を覗かせるだけにとどまっています。

 一方張作霖はますますその勢力を拡大し本書においてほぼ完全に満州を掌中に入れ、革命軍との対決姿勢を鮮明にしています。しかし今回はここまで、山海関を越えるのは第四部を待たねばならないようですし、息子で龍玉を持つ張学良もまだ表舞台には登場していません。

 というわけで今回はクライマックスに向けての布石という段階で、さすがの浅田先生も感涙を絞らせるには至りませんでした。話の中では沢山の人が泣いてますが(苦笑。それにしても先生の西太后への入れ込みようは並大抵のものではなく、本書においても、う~ん、そこまでやるかという位の「活躍」を見せています。これには賛否が分かれるでしょうね。

 というわけで、第四部ではいよいよ国民党による北伐満州某重大事件が描かれるはずです。変える事のできない歴史の流れの中で、本書における数多くの登場人物達がどう出会い、どう別れていくのか、そして何よりも中原を統べるものの証「龍玉」は誰の手に渡るのか、、、完結編への興味はつきません。

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2007/05/11

60年代ロックベスト100

レコード・コレクターズ 2007年 05月号 [雑誌]
 すでにあちこちのブログで話題になってますが、ようやくレコードコレクターズ5月号を買ってきました。目玉は25周年記念企画「60年代ロックベスト100」です。早速読んでみましたが、100枚全部見ると概ね納得しますが、ベスト10はどうかなあ?
 ということで10位までを書き出してみます。選考方法は25名の評論家、ミュージシャンに25枚ずつ選んでもらい、それを参考に編集部が順位付けした、とのことです。なお黒人音楽は今回の対象に入っていません。

1位:「Pet Sounds」 The Beach Boys
2位:「Highway 61 Revisited」 Bob Dylan
3位:「Music From Big Pink」 The Band
4位:「Let It Bleed」 The Rolling Stones
5位:「In The Court Of Crimson King」 King Crimson
6位:「Led Zeppelin」 Led Zeppelin
7位:「Sgt. Pepper's Lonely Heart Club Band」  The Beatles
8位:「Revolver」  The Beatles
9位:「Beggars Banquet」  The Rolling Stones
10位:「Electric Lady Land」 Jimi Hendrix

 4-10位には概ね首肯できますけど、ベスト3がね(^_^;)。これが投票選考の難しさなのかもしれませんが、どう考えても当時の実情には合わないように思いますね。

 ビーチボーイズが60年代を代表するバンドだった事に異論はありませんが、それはあくまでもサーフィン・サウンドであって、「Pet Sounds」当時は世間ではビーチボーイズはすでに時代遅れで盛りを過ぎたと考えられており、このアルバムも殆ど評価されなかったと記憶しています。その辺は以前紹介した村上春樹の「意味が無ければスイングはない」に詳しく述べられています。

 また、ザ・バンドは玄人受けするバンドではあったけれど、ボブ・ディランのバック・バンド程度の認識の人が多く当時それ程影響力のあったバンドとはとても思えませんでしたねえ。

 ボブ・ディランは苦手ですが、まあ彼が2位という事には特に異論はありません。アメリカンロックを語るには欠かせないアル・クーパーも参加してますし。
 ということで別にアメリカン・ロックを差別しているわけではないですけど、ベストスリーを独占してしまったのはどう考えても60年代当時の実情に合わないと思います。

 という訳で、60年代を語ろうとすればやっぱりビートルズのデビューですよね。どう考えてもベストスリー以内にビートルズの「ミート・ザ・ビートルズ」(38位)か、「プリーズ・プリーズ・ミー」(55位)が入っていないのはおかしい、と思うのは私だけでしょうか。

 さて、次号は私の青春時代、70年代ベスト100です。という訳で勝手ながら私的ベスト10を、できるだけ公正な目で選んでみましょう。同一アーチストは一枚のみという縛りで、できるだけ前半後半のバランスも考えて選んでみました。

1位:「Ziggy Stardust」 David Bowie
2位:「The Dark Side Of The Moon」 Pink Floyd
3位:「Hotel California」 The Eagles
4位:「John Lennon/Plastic Ono Band」 John Lennon
5位:「Rumours」 Fleetwood Mac
6位:「In Rock」 Deep Purple
7位:「Led Zeppelin IV」  Led Zeppelin
8位:「Never Mind The Bollocks」  Sex Pistols
9位:「A Night At The Opera」  Queen
10位:「The Slider」 T.Rex

あっ、KCが(涙。

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2007/04/14

カート・ヴォネガット氏を悼む

Birdcage_2
 アメリカの作家Kurt Vonnegut(カート・ヴォネガット)氏が4月11日永眠されたそうです。謹んでお悔やみ申し上げます。
 近年は執筆活動を行っておられず「タイムクエイク」以後彼の小説を読む機会もありませんでしたが、最近トルーマン・カポーティの伝記を仕事の合間に拾い読みしていて、丁度ヴォネガット氏のインタビューを読んだところでした。ひょっとしたら「俺はそろそろ逝くよ」と教えてくれていたのかもしれませんね。今頃

So Be It. (そんなもんだ)」

と、ニヤリとしておられるかも。笑って送ってあげたいですが、公式サイトの開け放たれた鳥籠を見たら少しほろっとしました。

 私が彼に熱中していたのは大学生時代で、その頃は「カート・ヴォネガット・ジュニア」と言う名前でした。むこうでは「カルト作家」として一部に熱狂的なファンを有する作家でしたが、日本では一風変わったSF作家として扱われていたように思います。伊藤典夫氏をはじめとするSF翻訳家が主に早川書房などに細々と紹介されていました。

 というわけでまあ正直言って当時日本ではドマイナーでした。「Slaughterhouse-5」などは最初「屠殺場5号」という邦題で全く売れず、後に「スローターハウス5」と名前を変えてそこそこ売れるようになった、なんて話もありました。この本こそ、諦観とアイロニーに満ちた彼の作品群の根底を成す、自身のドレスデン大空襲体験を小説化した代表作なんですけどね。
 もう一つの代表作「ボコノン教」で有名な「Cat's Cradle(猫のゆりかご)」を日本の新しい世代の作家達が認めるようになって徐々に日本でも人気が出てきたように記憶しています。私もなんやかや言いながらこの小説が一番好きです。

「わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、
みんなまっ赤な嘘である。
ボコノン教徒としてのわたしの警告は、こうだ。
嘘の上にも有益な宗教は築ける。
それがわからない人間には、この本はわからない。
わからなければそれでよい。」
ボコノンの書より)

Cat's Cradle

 そう言えば社会人2年目の頃でしたか、同門会誌に彼の事を紹介したのですが見事に誰も知りませんでした。その前の年に石田波郷について生意気な文章を書いたもんで、先輩の先生方から次の年もその調子を期待されていたのですが、見事に肩透かしを食らわせてしまったわけですね(^_^;)。でも個人的にはこちらの文章の方が余程気にいっていたんです、というわけで昔の恥ずかしい文章を抜粋して彼への追悼としたいと思います。

『 (冒頭数行略)
 カート・ヴォネガットは日本ではまだ一部のSFマニアにしか知られていないが、アメリカでは

「one of the best living American writers」(Graham Green)

として名声を馳せている。処女作は「プレイヤー・ピアノ」であるが、彼がカルト作家として一部インテリ層に熱狂的信者を集めるようになったのは「猫のゆりかご」をものしてからである。映画化もされた「スローターハウス5」で彼の純文学作家としての名声は決定的となったが、彼の独特の文体の出発点が「猫のゆりかご」であることに変わりはない。

 では彼がどんな作家であるかと云われると非常に困るのだが、一言で云うと

"foma" =  harmless untruth

を書く作家という事になろう。「スローターハウス5」「スラップスティック」等彼の自伝めいた作品でさえuntruthのオブラートに包まれる。

 彼の作品中の人物の多くは、小男、どもり、白痴、奇人等である。彼はそれらの人物に余分な愛情も過度の軽蔑も示さない。淡々とした「馬鹿なりの」生活を描いていくうちに。彼の人生に対するほろ苦い諦観が浮き彫りにされていく。例えば「スローターハウス5」は第二次大戦で連合軍が行ったドレスデン空襲(広島より多くの犠牲者が出た。彼は実際に空襲される側の人間としてこの空襲を経験した)を扱った作品であるが、作中で登場人物が次々に死んでいく。その度に彼はこう付け加えるのだ。

「そういうものだ = So be it. or So it goes.」

と。これ程人を喰った表現も珍しいと思う。しかし、人類の為した無類の暴挙愚行を通り過ぎた彼のほろ苦い哀しみと解釈すれば、ホモ・サピエンスへの彼の愛着の裏返しの表現とも思えてくる。
 事実彼は「猫のゆりかご」「スラップスティック」「プレイヤー・ピアノ」等で、人類文明を何度か破滅させるのだが、作中で何度と無く次の意味の文章が顔を覗かせる。

「Love may fail, but courtesy will prevail」

彼の文中のあまり世渡りの上手くない人物は決して愛してくれとは云わない。ごくありふれた親切さえあれば人生をそれだけで生きていけるのである。そして死に直面すれば素直に従うのだ。So be it.と。そんな情けの無いと言えば情けの無い、しかしこれ程穏やかな人生は無いと云える日常を、彼独特の奇想天外なシチュエーションの下に描き出したfoma、それが彼の作品である。

 彼のそんな思想(と云えるかどうかわからないが)を、fomaで塗り固めたのが「猫のゆりかご」に出て来るボコノン教である。是非ご一読頂き、その綿菓子のような毒気にあてられて頂きたいと思うが、ここではその白眉を記しておく。

第14章:
Q:  " What can a thoughtful man hope for mankind on earth, given the experience of the past million years? "
A: " Nothing "

(以下略)』

合掌。

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2007/02/25

アメリカ西部開拓と日本人 / 鶴谷寿

Tsurutani
 先日の「冷血」の記事やhomさんのコメントにもありましたように、この本は大変枝葉の多い作品で、加害者被害者の家族のみならず、それを取り巻く数多くの家族の状況が記載されているのですが、その中でも一際印象的なのが(とりわけ我々日本人にとって)アシダ・ヒデオ一家でしょう。

 アシダ家は事件の2年前にコロラドからカンザスへ移住した小作農で、被害者であるクラッター一家とも親しく地元コミュニティに溶け込んでいたのですが、事件から間もなくしてネブラスカへ移住します。貧しくとも一家揃って大変勤勉誠実で、クリスマスに家族がヒデオに金歯3本を贈るという涙ぐましいエピソードも挿入されていますし、更に最終章では、長女のボニー・ジーン・アシダがこの地を訪れた際に車の衝突事故で亡くなる、という悲話が語られており、本筋と関係ない家族の中では特に印象に残ります。

 時代から推定してアシダ家はおそらく日系移民一世か二世でしょうね。私がこの本を最初に読んだ当時でさえ「10問正解して夢のハワイへご招待」てな時代、アメリカ本土への旅行など夢のまた夢でした。もちろん日系移民がハワイを中心として多数おられ、本土では第二次大戦中強制移住させられた、というような歴史は知識としては一応知っていても、カンザスなどというアメリカのど真ん中で白人コミュニティに溶け込んでおられたと言う事実には現実感が無く随分驚いた覚えがありました。

 ところが後年、ひょんなことからその手がかりとなる本を頂くことができました。以前の職場にいた時、鶴谷寿先生とおっしゃる英文学の先生とご縁があり、冒頭の写真の「アメリカ西部開拓と日本人」(NHKブックス)を頂いたのです。その内容は非常に興味あるもので、アシダ一家の努力と苦労も偲ばれる思いがしました。ごく簡単にですが、先生のご著書から、日本人アメリカ移民の歴史を追ってみましょう。

1:1800年台中半:中国人の大量移民
 1848年のゴールドラッシュをきっかけに西部開拓が始まり、大陸横断鉄道の建設が急務となります。しかし、奴隷制度の廃止の風潮の為安価な労働力が不足し、それをアメリカは中国から輸入するようになります。それが「苦力貿易」と呼ばれる大量の中国移民で、1860年代の中西部鉄道建設現場では5人中4人が中国人だったといわれています。そしてその労働は苛烈を極め枕木一本に一人の中国人の骨があると言われるほどで、実際奴隷となんら変わる所が無かったようです。

2:1800年代後半:中国人排斥運動と移民禁止
 これ程安価な労働力として利用していながら白人労働者との賃金差に伴う軋轢、更には慣習の違い等に伴う人種差別により次第に中国人は排斥されるようになり1885年にはロックスプリング中国人大虐殺事件などが起こり、1902年に「中国人移民取締条約」の法改正で完全に中国人移民入国は禁止されてしまいます。

3:1900年代初頭:日本人出稼ぎ移民の開始
 中国人が排斥されれば当然ながら労働力が減少し新たな安価な労働力が必要となります。一方日本では農村の貧困と言う経済的条件や武士階級の没落と言う政治的条件から、両国の思惑が一致し、まずは出稼ぎとしての移民がアメリカへ渡ることになりました。1890年にはアメリカ本土に中国人が10万人日本人は2000人でしたが、1920年には中国人6万人、日本人11万人と完全に逆転しています。当初鉄道建設に従事していた彼ら「Jap Gang」(ギャングとは本来の組という意味です)は鉄道網の完備が終わると主に鉱山労働へ移行していきます。その段階でワイオミングのようなアメリカ中央部まで入り込んでいきますが、中国人と日本人の区別の付かない中央部の住民には区別が難しかったようです。

4:1910年代:日本人排斥、そして出稼ぎから定住へ
 中国人に取って代わった日本人も当然ながら低賃金であったため、またも排斥運動が起こります。1913年にカルフォルニア州で「排日土地法」が制定され、多くの日本人は日本へ帰国してしまいます。例えば1910年から1920年までの間に入国した約87000人の日本人のうち約80%の7万人が帰国したと言う記録があります。ここで日本に帰らなかった日本人の中には勿論永住の意思の固い人もいましたが実際は殆どが帰っても生活のめどの立たない「居直り永住」が殆どだったようです。
 1924年には「排日移民法」と称する新法が施行され日本人移民は完全に禁止されました。残された移民は完全に孤立し、帰国しない限り永住しか道がなくなりました。永住するためには家族を持つことが必要になります。ところが当時の日本人移民は元が出稼ぎ目的ですから当然ながら殆どが男性で、大体9:1、奥地では40-60:1と極端な女性不足でした。勿論当時のことですから白人との結婚なんて許されません。かと言って日本に戻って相手を探す経済的余裕も無く、そこで考え出されたのが「写真結婚」でした。
 移民が禁止されたとは言え、当時でも紳士協定として妻帯者が妻を母国から呼び寄せることは可能でした。そこで日本にいる親戚縁者に頼み込み写真で縁談をまとめて花嫁をアメリカに送り込む方法が取られたのです。このような「写真花嫁(Picture Prides)」の実態は正確にはつかめていませんが、相当数(万単位)に上ったと推定されています。

5:排斥、迫害を超えて帰化の時代へ
 このような経緯を経て永住の時代になったわけですが、その間彼らの殆どはなんら日本国の国力の背景も無く保護も受けず個人的なペースで移住しました。言語風習の違いはもとより、排日や人種差別と戦ったわけですが最大の悲劇は太平洋戦争時の強制立退強制収容でした。
 太平洋戦争に際して、2,3世を含めて太平洋沿岸地域の11万人以上の日本人移民が各居住地を強制立ち退きさせられキャンプに強制収容されられました。この間日系二世部隊はヨーロッパ戦線で活躍し幾多の戦功を上げていますし、一方で他の交戦国独伊の移民にはなんらこのような処置は取られませんでした。敢えて言うとアメリカ原住民でこのような強制移住の歴史があるのみですから、これはもう日本人の忠誠心を疑ったということではなく、明らかな人種差別であったといえましょう。

 そのような艱難辛苦の歴史を経て1952年に発効された「移民帰化法」により、在米日本人にもようやくアメリカ市民となる権利が与えられました。「在米日本人」から「日系アメリカ人」となったわけです。英語で書くと

Japanese-Americans

となりますが、このような何々系というのはhyphenated-americansと呼ばれ「ランダムハウス英和大辞書」によると

「米国籍を持つが忠誠心愛国心の点で前の国籍に関する感情を残している米国人」

と定義されています。まだ完全にアメリカに同化していない、ということでしょうね。帰化当時の日本人に当然そのような感情は残っていたと思いますが、鶴谷先生がこの本をお書きになった昭和50年代でもまだその傾向は色濃く残り、日系人の中でもそのような矜持を持ち続けるべきか完全に同化するべきか意見が分かれている、と記載されています。

 今の時代、例えば4世のレイチェル・ヤマガタの歌など聴くにつけ、時が全てを洗い流してしまったのではないかな、という感慨を抱かないでもありません。しかし一方で、今なお中南米への移民の方の訴訟が続いている現実もあるわけです。このような方々は、日本からは「棄民」され相手国からは「利用され差別された」のが実態であった、という事を鶴谷先生の本を読んで改めて感じました。

 時には、アメリカ建設のために戦い斃れた日本人が荒れ果てた西部の日本人墓地に

A Jap(エイジャップと呼ばれる)」

として葬られている事実、あるいは「冷血」に出てくるアシダ一家のように、貧しくとも誠実勤勉な移民家族がより良い環境を求めて転々と広大なアメリカを移住し続けなければならなかった事実を思い起こしてみて、「日本とは何か」「アメリカとは何か」を考えることも歴史認識国際感覚を養ういい機会になるのではないでしょうか。

 「冷血」の一脇役家族から思わぬ長文になってしまいました。読了お疲れ様でした。
<m(__)m>

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2007/02/23

冷血 / トルーマン・カポーティ

冷血
 去年シネ・リーブルで予告編を見てこりゃあ見なくちゃ!と思っていた映画「カポーティ」ですが、まだ大丈夫だろうと思っているうちにあっという間に終わってしまい見損ねてしまいました。homさんの記事によるとやはり必見の作品だったようで、DVDレンタル開始を心待ちにしています。ただ待ってても仕方ないのでこの際原作となった「冷血In Cold Blood )」を読み返してみることにしました。

 私がカポーティの作品を初めて知ったのは中学生の頃で、ベタですが出会いは「ティファニーで朝食を」でした。オードリー・ヘップバーンのファンだったので、映画を観て主題歌「ムーン・リバー」の英語歌詞が知りたくなり、文庫本の解説に載っていたのでこれ幸いと買ってしまったわけです。意外な事に原作は甘いラブロマンスではありませんでした。それでカポーティという人に興味を惹かれて話題になっていた「冷血」を読んでみたんですが、、、とんでもなく大変な作品でした(^_^;)。

 この作品は以前ロジャー・ウォーターズの記事で触れたことのあるネル・ハーパー・リーの「アラバマ物語To Kill A Mockingbird )」などと並んでニュージャーナリズムの源流との評価の高い作品です。なお、ハーパー・リーとカポーティは幼馴染で、「冷血」の冒頭の謝辞にも彼女の名前は出てきておりこの作品の取材にも深く関わっていました。
 この文庫版の解説にもありますがその後「ニュージャーナリズム」という名前は何にでも冠され過ぎて雲散霧消、何年もしないうちに誰も口にしなくなってしまいました。しかし、そう言うことには全く関係なく、この作品の持つ価値というのは未だに色褪せていない、と再読して感じました。

カンザス州の片田舎で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に、著者は5年余 りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモ ラル―。様々な物議をかもした、衝撃のノンフィクション・ノヴェル。

 学生時代に読んだ時は、犯人の一人ペリー・スミスの苛烈な家庭環境が影響したと思われる特異な人格に関する微に入り細を穿った記述に目を奪われ、一方であまりの枝葉の多さに辟易した覚えがありました。何しろ犯人二人、被害者の家庭の詳述な記載のみならず関わった多くの家庭についてもここまで書くか、というくらい詳細に記載されていますし、この事件に何の関係もない他の死刑囚の罪状についても事細かに記載されているのですから。
 というわけで当時はペリー・スミスに焦点を絞って書いたほうが良い作品になったのではないか、なんて生意気に思っていましたが、子を持つ親の身になった今読み返してみると、前回とは全く逆に様々な家族の絆についての記述が涙を誘います。逆に当時は信じられない思いだったペリー・スミスという人物が、現在という世の中では十分理解可能、というか巷に溢れている愚劣な殺人事件の数々に比べればまだしもノーマルに感じられてしまいます。また、今一度生意気なことを言わせてもらえれば、これだけの長編で一部の隙もないと思える構成の見事さには感嘆の念を禁じ得ません。

 というわけで、ノンフィクションでありながら小説として十分な読み応えがあり、しかも再読に耐える作品というものにはそうそうお目にかかれるものではないと思いますが、これはその稀有な例の一つでしょう。やはり「アンファン・テリブル」の他称そして「ヤク中アル中の天才ホモ」との自称は伊達ではなかったと言えますね。その取材方法が「物議を醸した」と帯にあり

「冷血」とは実はカポーティ自身のことか

とかも言われてますが、そのあたりは映画で堪能できる日を楽しみに待つことにしましょう。そう言えばもうすぐアカデミー賞の発表ですね。

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2007/02/07

ミスター・ヴァーティゴ / ポール・オースター

ミスター・ヴァーティゴ
はむちぃ: 今日は久々の書評でございますが、ご主人様お気に入りの米現代作家、ポール・オースター様の作品でございます。
ゆうけい: ついでに言っとくとお気に入りの訳者柴田元幸先生の訳です、作品自体は古いのですが今回やっと文庫版が出ましたのでご紹介いたします。
は: 「ミスター・ヴァーティゴ(Mr Vertigo)」というご主人様の持病がそのまま題名になっておりますが、
ゆ: よけいな事はイワンの馬鹿(古、私の専門分野と言ってくれたまえ、柴田先生に「Vertigo(回転性めまい、グルグル)」と「Dizziness(動揺性めまい、ユラユラ)」の違いを教えてあげたいくらいじゃ、ふおっほっほ~、うっ、ああ、めまいが(@_@;)
は: はいはい、レビュー参りましょ、レビューに(-_-;)

『 「私と一緒に来たら、空を飛べるようにしてやるぞ」ペテン師なのか?超人なのか?そう語る「師匠」に出会ったとき少年はまだ9歳だった。両親なし、教養なし、素行悪し。超然とした師匠の、一風変わった「家族」と暮らす奇妙な修行生活のなかで、少年がやがて手にしたものとは―。アメリカ文学界きっての語りの名手が編む、胸躍る歓喜と痛切なる喪失のタペストリ、心に迫る現代の寓話。』(AMAZON解説より)

は: 題名の通り、めまいがするようなジェットコースター的な運命の変遷の物語でございますね。
ゆ: ポール・オースターは栄光の後には必ず挫折を、名誉の後には汚辱を、富を得たら喪失を必ず用意してますから驚きはしませんが、それにしても目まぐるしい展開でしたね、そう言う意味では最もハリウッド映画的な構成に近づいた作品かもしれません。読んでいてちょっと「フォレスト・ガンプ」を思い出してしまいました。
は: 実際映画を意識した記述がございますね。主人公の少年が空中浮遊をマスターし、舞台が次々に成功をおさめていく場面でございますが、少し引用して見ましょう。

『これが映画だったら、日めくりカレンダーが次々めくられていくところだ。田舎道と回転草を背景にカレンダーがぱたぱたとめくられ、黒いフォードがオクラホマ東部の地図の上を進んでいき、いろんな町の名が現れては消える。軽快なリズムの、レジの音に似た、シンコペーションの効いた音楽が鳴り響き、ショットは目まぐるしく変わっていく。コインのあふれたバスケット、道路脇のバンガロー、拍手する手や地面を踏みならす足、あんぐり開いた口、目を丸くして空を向いた顔・・・・・・そういった映像が十秒くらいのうちにかわるがわる出てきて、終わったときには一か月間の物語が観客全体に伝わっている。古きよきハリウッドの手口。』(文庫版pp179-180)

ゆ: まことに見事な描写で、洋画ファンにはお馴染みの画面が目に見えるようです。
は: ちなみに1994年にこの作品が上梓されておりますが、その後オースター様は本当に映画制作に進出されておいででございますね。
ゆ: 「スモーク」(1995)「ルル・オン・ザ・ブリッジ」(1997)などがそうですな、彼にとってはポストモダン的作風から脱して本格的にストーリーテリングへ比重が移っていった時期なのでしょう。その後の「ティンブクトゥ」(1999)では正直言って少しパワーダウンした感がありましたから、90年代前半ー中盤が一番乗っていたのかもしれませんね。

は: 年代と言えば主な舞台が主人公の幼少年時代の1920年代と言うのも巧みな設定のように思いました。
ゆ: おっ、良いとこ見てるね、はむちぃ君、TVと言うメディアが成立してからでは、地方と都会の文化度の違いも少なくなってしまうし、情報の伝わり方のスピードも桁違いになってしまうしね。確かに空中浮遊と言う如何にも怪しげな芸がどさ回りの舞台として成立し得た「古き良き時代」を持ってきたのは計算尽くだったように思います。TVの時代にあんな芸をやればきっと瞬時に食い物にされちゃっただろうね。
は: 人種差別、貧困、KKK団、大恐慌、大リーグ創生期、禁酒法、ギャング、リンドバーグの大西洋横断そして第二次世界大戦等々、面白いほど劇的な展開に事欠かないネタが満載の時代でもありましたし。
ゆ: それらを一人の男の人生の変遷に組み込んでいく、強引な力技はオースターならではですけどね。特に今回は人種構成が見事です、主人公が修行時代を暮らすど田舎の農場の登場人物を挙げてみましょう。

ウォルト(主人公): 父親はベルギーで毒ガス殺(つまり多分ユダヤ人)、母親は売春婦
イェフーディ(師匠): ハンガリーのジプシー、ユダヤ教教師
イソップ(兄貴分の天才少年): 捨て子の黒人
マザー・スー(世話役の女性): 有名なインディアン、シッティング・ブルの弟の孫
ミセス・ウィザースプーン(師匠のパトロンの未亡人): 金持ちの白人

と名前も意味深ですし、全てに意味がある設定となっています。そしてそれを伏線として後で大変な事件がおこるわけですが、これがもう痛切と言うしか言い様がないですね。それが実際あの時代のアメリカでは日常茶飯事として起こっていたと言うことには背筋が寒くなる思いです。

は: ちなみに師匠の名前は、あの稀代のマジシャン「ハリー・フーディニを連想させるようにはむちぃメ思うのですが?
ゆ: 作中で直接の言及はありませんが、フーディニもハンガリー出身で20年代に活躍したマジシャンですから、先ず彼を下敷きにした人物造形と考えて間違いないでしょうね。いつもスピノザを読んでいたかどうかは分かりませんが(苦笑。
は: イェフーディ師匠がいつもラテン語のスピノザの本を読んでいると言う設定でございますね、あれは一体何の本なのでございましょう?
ゆ: 多分「エチカ」でしょうけれど、ユダヤ教教師と言う設定のイェフーディが、ユダヤ教に批判的であったスピノザの本をこよなく愛していると言う設定は、自身ユダヤ系でもあるポールー・オースターの複雑な胸の内を垣間見る気がします。

は: 最後に柴田元幸先生の訳はいかがでございました?
ゆ: 地口の多いオースターの作品ですから随所に苦労の跡は見られますが、やはり柴田氏独特のテンポの良い語り口は健在ですし、主人公のスラングの多い喋り方をうまく表現されていると思います。

は: と言うわけで、めまいを快感にされているご主人様にはぴったりの作品でございました、旧来の作品に飽きて何か面白い小説はないかな?と考えられている方は是非どうぞ。そう言えば今回はご主人様のお好きなポストモダンネタは不発でございましたね(^_^;)
ゆ: ストーリーについて殆ど語らないレビュー自体がポストモダンですな(-.-)。でも、あるぞよ、ネタは。
は: た、例えば?
は: 主人公の甥の大学教授の名前がダニエル・クィンですな、そいでもってティンブクトゥ(はるか遠い場所)の地口が早くもこの小説で登場してたんですな、最後にやっぱり、西がオースター作品の登場人物には鬼門ですね。もいっちょいっとくと、表紙絵がアート・シュピーゲルマンさんです。分かる人限定でお楽しみくださいませ(^^ゞ

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2007/01/23

Number 2/1号:ラグビー猛き光芒

Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2007年 2/1号 [雑誌]
 スポーツ・グラフィック誌Numberの最新号はラグビーの特集です。daitenさんの記事で知って買ってきました。大学、社会人、オールジャパンと万遍無く取り上げられていて、大変読み応えがありました。高校が無かったのが少し残念ですが、Number Eyesで大会決勝の東海大仰星対東福岡についての考察があったのでよかったです。

Rugby Football Climax

[大学選手権決勝] 
宿命決戦「波乱と必然」

[密着ドキュメント] 
早稲田大学
関東学院大学
明治大学
慶應義塾大学

[トップ対談]
ジョン・カーワン × 清宮克幸
「日本ラグビーの未来を語ろう」

[楕円球とともに]
平尾誠二/松尾雄治/堀越正巳/吉田義人

 それぞれに首肯できるところがあり、ラグビーと言う日本ではマイナーなスポーツにもきっちりと取材している記者やライターがいるんだなあ、と妙な感心をしてしまいました。やはり一番面白かったのは日本代表ヘッドコーチジョン・カーワン氏とサントリー監督清宮克幸氏の対談です。カーワン氏の熱い思いがひしひしと伝わってくる良い対談でしたね。逆に言うと、清宮さんをして

「あんなにも弱い日本代表(=エリサルド体制)を僕は知りませんから」

と言わしめた体制を作った人の責任についていまだに何の音沙汰も無いのはどうしたことだろうか、と思いますね。カーワンさんは日本代表のヘッドコーチは日本人が引き継いで行くべきだと言う考えをお持ちのようですから、もう次期監督は誰になるか半分決まったような気もしますが(^^ゞ、とりあえずカーワン・ジャパンはW杯においてきっちりと一定の成績をおさめて欲しいと願います。

 ところで本文中にも出てきますが、カーワン・ジャパンのポイントゲッターである両ウィング(WTB)は小野澤(サントリー)、大畑(神鋼)という構想です。そのうちの大畑が先日のヤマハ戦でアキレス腱断裂と言う最悪の事態を生じてしまったのはいきなりの誤算でしょう。大畑はキャプテンでもあり、そういう意味では大誤算、と言って良いかもしれません。
 実は大畑が倒れる瞬間はスタジアムで間近で見ていました。ボールが渡って前を向いた瞬間、タックルを受けたわけでもなく突然倒れてしまいました。「グラウンドの凹凸に足を取られた」と報道されていましたが、試合前のグラウンド整備は入念に行われていましたし、グラウンドコンディションは決して悪くない中で起こった事で、大畑にはきついようですが、自分自身の責任だと思います。その事は本人が一番分かってるとは思いますが、キャプテンとして今後のことをよくカーワン氏と話し合って欲しいと思います。

 往年の名プレーヤー4名のインタビューは各々に印象深いものがありましたが、特に平尾誠二氏には複雑な思いがあり、興味深く読みました。伏見工同志社大学神戸製鋼と全てのキャリアにおいて日本の頂点に立った彼は、私より少し年下ではありますがずっと憧れの対象でした。殆どの経歴をスタンド・オフと言う司令塔で過ごした彼のことですから、当然日本代表監督になるだろうと思っていましたし、実際そうなりました。実際就任以来、数々のプロジェクトを立ち上げ、目に見える改革を行い、自信たっぷりに99年W杯に臨みましたし、マスコミもあの当時は最大限の持ち上げ方をしていたように思います。しかし結果は惨敗でした。それはそれで仕方ないとも思いましたが、帰国後の記者会見で彼は

「素の力が足りない」

と言う表現をしたのです。これには落胆しました。そんなこと誰でも知ってるじゃないか、だからこそ、司令塔としての頭脳を買われて代表監督に就任し色々な改革を行ってきたんだろうと。それが負けたら結局それを言い訳にするのか、と。それを言っちゃあおしまいじゃないか、なに考えてるんだろうと、彼への盲信が人一倍強かっただけに当時かなりショックを受けた記憶があります。それ以来彼の言動は話半分にしか聞かないようになり、最近では彼の事は殆ど追いかけてなかったように思います。今回の記事でその事についてインタビュアがきっちりと質問してくれていますので、8年振りに彼のその当時の考えを知る事ができました。やはり彼の言う事に全面的に納得はできませんが、あの惨敗の反省を踏まえてトップリーグを立ち上げ日本のレベルを底上げして来た、と言う面は評価されてしかるべきかと思います。今後も清宮さん達とともに日本ラグビーを引っ張って言って欲しいと思います。先ずは神鋼の建て直しが必要ですけれどね(苦笑。

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2006/12/28

今年を振り返る(6)美術展・書籍編+おまけ

Mutualattraction
はむちぃ: さて皆様、今年を振り返るシリーズ最後は美術・書籍でございます。先ずは美術展回顧から参りましょうか。
ゆうけい: なんやかや文句をたれつつ、兵庫県立美術館にはお世話になっておりますね(^_^;)。

兵庫県立美術館:三つの展覧会  06/12/11
(エコール・ド・パリ展、菅井汲展、ピクサー展)
ルーブル美術館展@京都市立美術館  06/10/21
オルセー美術館展@神戸市立博物館  06/10/01
CAPA IN COLOR@神戸大丸  06/06/04
アメリカの風景:ホイットニー美術館展  06/05/04
バリ紀行(3)芸術の村探訪  06/03/25
鴨居玲展@小磯記念美術館  06/02/05

は: こうしてみますと、居ながらにして世界の美術を鑑賞できる日本という国は幸せな国なのでしょうね。
ゆ: 確かにそう思います。ただ、滅多にみられない東南アジア系の美術をバリのネカ美術館で鑑賞できたのも、今年の収穫の一つでした。

は: さて、美術展単位で評価するのはあまり適切ではございませんから、印象に残った作品ベスト3を挙げていただきましょう。では第3位、
ゆ: 冒頭の写真の作品でございます。

第3位:アブドゥル・アジズ: 惹かれあう二人(ネカ美術館)

は: バリのネカ美術館の目玉作品でございますね。
ゆ: もともと別の作品だった二つを、ネカ氏の提唱で一つにして良い雰囲気を醸し出すことに成功しています。
は: とても微笑ましい雰囲気でございます。
ゆ: この女の子、ゴマキやら、事務のおばちゃんやら、子供の友達やらに似てるといった大変フレンドリーなコメントを頂きました(爆。

は: では第2位を発表していただきましょう。
ゆ: 第2位には写真作品を入れてみました。

第2位: ジョージ・シーリー: ほたる(写真)オルセー

は: フランスの作品らしく写実より芸術的雰囲気を大事にした作品でございますね。
ゆ: 幽玄な香りさえいたします。写実と言う意味ではロバート・キャパのカラー作品群がとても印象に残りました。

は: パンパカパーン、では最も印象に残った作品を挙げていただきましょう。
ゆ: チープな効果音ありがとよ、はむちぃ君(-_-;)。呆然と絵の前で立ち尽した、という経験を久しぶりにしました。

第1位: ロス・ブレックナー: カウント・ノー・カウントホイットニー

は: ホイットニー美術館所蔵のアメリカ現代芸術の代表作の一つでございまして、エイズの犠牲者への鎮魂の意思を込めて作られた大作でございます。
ゆ: 絵を紹介できないのが残念ですが、写実的な要素に乏しく、更には実物の大きさ、表面の肌合いといったものの与える衝撃も強い作品ですので、印刷コピーではその凄さが判りにくいと思います。できれば実際にご覧頂きたく存じますm(__)m

は: では書籍の回顧に参りましょう。記事をリストアップいたしますと書きの如くでございます。

もやしもん4  06/12/24
村上春樹版「グレート・ギャツビー」  06/12/15
村上春樹ワンダーランド  06/12/04
中原の虹 第二巻  06/11/10
ティンブクトゥ  06/10/17
のだめカンタービレ#16  06/10/14
中原の虹(1) 浅田次郎  06/10/04
照柿(文庫化)  06/08/24
もやしもん  06/07/19
うらなり  06/07/15
わたしを離さないで / カズオイシグロ  06/06/29
のだめカンタービレ #15  06/06/16
水に似た感情 / 中島らも  06/04/06
Oxford Bookworms Library  06/04/04
ある編集者の生と死ー安原顯氏のことー  06/03/10
新リア王/高村薫  06/02/20
病院が大震災から学んだこと  06/01/22
のだめカンタービレ#14  06/01/20
桜の森の満開の下  06/01/05

ゆ: 漫画はのだめもやしもん、小説は村上春樹高村薫オースターといった極めて狭い個人的好みの作品が出れば掬いあげるというスタンスに終始しておりますな。
は: だからダ・ヴィンチ1月号の「Book Of The Year」を読んでも知らない作品ばかりになってしまうのでございますよ(-.-)
ゆ: う~ん、見事に世間とずれていたな(・_・;)、まあ活字文化が衰退していないのだろう事が推測できてよかったけどね。
は: 「中原の虹」4部作の出版が始まったのは朗報でございましたね。
ゆ: ホントです、まさか「蒼穹の昴」の続編が出ようとは、生きてて良かった(ウルウル。
は: 全日空で「中原の虹」ツアーが行われたそうでございます。
ゆ: そうそう、長崎からの帰りの飛行機で見つけたんだけど羨ましいなあ~。まああと2作残っているのが、来年最大の楽しみですね。

   では皆様、今年を振り返るシリーズ、この辺でお開きとさせて頂きます、読了有難うございました。
は: ご主人様、ちょっと気になる事があるのでございますが、、、
ゆ: ウン、何だいはむちぃ君?
は: 私メ、先日初めてアクセス解析なるものを覗かせていただきまして、
ゆ: ほうほう、研究熱心やね、ご苦労さん。
は: やはり「オーディオ」関連の記事を皆様最もよくご覧頂いているようなのでございます。
ゆ: ギクッ(@_@;)、オーディオの出てこないオーディオブログとか嘯いてはいるが、、、
は: オーディオを振り返るのを忘れているのではございませんか?
ゆ: ガ~~~ン、そ、そうであったか。どうしようハムチィ、もう締めちゃったよ。
は: 知りませんですよ、トホホ、とりあえず「Best Component Of The Yearゆうけい版」でも書いておかれてはいかがでございます?
ゆ: そ、そうさせていただきます(大汗。もう今年はこれしかネタらしきネタがございませんでした。その効果たるや圧倒的で、今まで何をしてきたんだろうと言う感じです。

Best Component Of The Year: Accuphase PS-510

は: オーディオを楽しみにしてくださっている方には全く以ってご無礼ではございますが、この辺でご勘弁くださいませm(__)m

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2006/12/15

村上春樹版「グレート・ギャツビー」

グレート・ギャツビー
グレート・ギャツビー

愛蔵版 グレート・ギャツビー
愛蔵版 グレート・ギャツビー

 村上春樹ファン待望の訳書が出ました。米文学を代表する傑作スコット・フィッツジェラルドの「The Great Gatsby」です。ロバート・レッドフォードの代表作である映画「華麗なるギャツビー」で有名ですが、本書の題名は「グレート・ギャツビー」と従来からの書籍での題名を踏襲しています。

華麗なるギャツビー

村上春樹が人生で巡り会った、最も大切な小説を、あなたに。新しい翻訳で二十一世紀に鮮やかに甦る、哀しくも美しい、ひと夏の物語―。読書家として夢中になり、小説家として目標のひとつとしてきたフィッツジェラルドの傑作に、翻訳家として挑む、構想二十年、満を持しての訳業。(AMAZON解説より)

 この書については以前ご紹介した事がありますが、私にとっても思い出深い作品であるとともに、我々ハルキストが

「村上春樹の作品の一つ」

として彼の訳を待ち望んでいた作品でもあります。彼は事ある毎に「グレート・ギャツビー」を生涯めぐりあった小説の中で一番大切な作品と公言してきましたし、同時に60歳になったらこの小説の翻訳を開始すると公言していましたが、それを前倒しして早くも出版されたことは嬉しい限りです。

 ということで11月に初版が出たのですがようやく読み終える事ができました。という訳で今日は思い入れたっぷりにいつもは気にしている記事の長さ制限も無視して思いのたけを述べてみたいと思います。長文覚悟でおつき合いくださいませ。

 私の場合以前にも書いたのですが、この「グレート・ギャツビー」は、

1:映画で初めて知り、字幕をみても何て言ってるのかさっぱり分からず、
2:原作を知りたいと思い生意気にも英語版の文庫本を買い、
3:出だしのあまりの難しさに即日本語版(野崎孝訳)を買って平行して読み進んでいった。

という経緯がありました。この短編小説は

「成り上がりものが既成の権力階級に敗れさるという図式を悲恋物語に託した」

という何やら最近のヒルズ族を思い起こさせるような、ある意味陳腐な物語ではあるのですが、フィッツジェラルド特有の香り立つような名文が詰め込まれていることで傑作となっています。

 それだけに原書はかなりの難物で、しかも日本語訳のスタンダードである野崎孝先生の訳も年月を経るに連れ今の時代の方にはかなりの難物となってきているように思われます。今回の春樹氏の訳書はその意味でも絶妙のタイミングでの出版と言えましょう。

 さて一読してみて、野崎先生の訳とは全く別の作品に近い、ある意味

「村上春樹の最新作」

を読んでいる気がしました。自身が原点としている作品なのにその気負いをいささかも感じさせず、平易な文章をリズミカルに重ねていく構成は、今の時代の読者にも十分受け入れることのできる仕上がりであると思います。

 といっても本書をご存じない方には全くピンと来ないと思います。少し具体的に検証してみましょう。自身の経験に重ねてみると、この作品の一番の難関は冒頭部分にあると思います。主人公ニック・キャラウェイが自身の生い立ちや人となり、ニューヨークに移り住んだ経緯などを長々とケレン味たっぷりに述べるため、話が一向に進まないんですね(^_^;)。だから原文も難しいし、野崎先生の訳も結構読み進みにくいんです。では冒頭部分を抜粋して見ましょう。

『 In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I've been turning over in my mind ever since.
"Whenever you feel like criticizeing anyone,"he told me,"just remenber that all the people in this world haven't had the advantages that you've had."
He didn't say any more, but we've always been unusually communicative in a reserved way, and I understood that he meant a great deal more than that.I'm inclined to reserve all judgements, a habit that has opened up many curious natures to me and also made me the victim of not a few veteran bores.』(原文)

『 ぼくがまだ年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけれど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた。
「人を批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなおまえと同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」
 父はこれ以上多くを語らなかった。しかし、父とぼくとは、多くを語らずして人なみ以上に意を通じ合うのが常だったから、この父の言葉にもいろいろ言外の意味がこめられていることがぼくにはわかっていた。このためぼくは、物事を断定的に割り切ってしまわぬ傾向を持つようになったけれど、この習慣のおかげで、いろいろと珍しい性格にお目にかかりもし、同時にまた、厄介至極なくだらぬ連中の御相手をさせられる破目にもたちいたった。』(野崎孝訳)

 私の場合挫折数回、先ずこの文章から読み返しすことになりますので、今となっては何を言ってるかすんなりと理解できますが、日本の標準的高校生では、この文章を原文、日本語訳を含めてたちどころに理解できる人は殆どいないんじゃないでしょうか。では春樹訳を抜粋してみましょう。

『 僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、おまえのように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」
 父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。おかげで僕は、何ごとによらずものごとをすぐに決めつけないという傾向を身につけてしまった。そのような習性は僕のまわりに、一風変わった性格の人々を数多く招き寄せることになったし、また往々にして、僕を退屈きわまりない人々の格好の餌食にもした。』(村上春樹訳)

 以前にも述べたことがありますが、春樹氏の文章は本当に句読点の使い方がうまい。このリズムなら比較的すんなりと頭の中に入ってきますし、読み進むのも難しくなさそうだ、と思わせてくれます。

 さて、この小説は最後の最後にフィッツジェラルド渾身の燦然と輝く美文で幕を閉じます。キャラウェイが、主ギャツビーを失った邸宅から対岸の上流階級の象徴である緑の灯を見つめながらギャツビーを回想する場面ですが、

『 Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter-tomorrow we will run faster, stretch out our arms further....And one fine morning-
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.』(原文)

『 ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へ先へと後退してゆく狂躁的な未来を信じていた。あのときはぼくらの手をすり抜けて逃げて行った。しかし、それはなんでもないーあすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう......そして、いつの日にかー
 こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。』(野崎孝訳)

ウ~ン、何回読んでもそのたびに感動してしまいます。ここは野崎先生も苦労して名文をお書きになっています。「ゆく」はこういう風に使うんだと、どこかのだれかさんに教えてやりたい気もします。
 さあ、春樹訳は、、、、、是非手にとってお読みください。実は春樹氏、このセンテンスだけは以前「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」と言う著書の「ロックヴィル巡礼」と言うエッセイの中で一度訳文を公開されています。その文章と今回の訳書の文章は随分異なっており、大変な努力のあとが伺えます。「old sport」の訳とともに最も苦労された部分でしょう。

 さて、村上春樹ファンには嬉しいことにこの訳書には大変長いあとがきがあります。氏の文章に餓えている方には絶好のエッセイと申せましょう。実はこの拙文の草稿を書き上げてから読んでみたのですが、私が語るまでもなく、氏がリズムの重要性、苦労した部分等を率直明快に述べられていました(T_T)。特に冒頭終章は

「全力を尽くした」

と述べられていました。我が意を得たり!と嬉しい反面、レビューとしては丸写しかよ、と言われかねないものになってしまいました(・_・;)。まあ、そういうことで少しでもこの名作の理解に役立てば幸いです。

 と言うことで最終的に原文に挑戦してみよう!という方には、

1: 先ず映画を観る
2: 興味が湧けば村上春樹訳を読む
3: 感動したら、原書に挑戦する

と言うコースがいいんじゃないでしょうか。ちなみに愛蔵版には「『グレート・ギャツビー』に描かれたニューヨーク」という付録冊子もついております。これをグーグルマップを眺めながら読むのも一興かと思います。

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2006/12/04

村上春樹ワンダーランド

村上春樹ワンダーランド
村上春樹ワンダーランド

 久しぶりに村上春樹ネタが出ました(^o^)。成蹊大学教授で米文学者の宮脇俊文先生の書かれた作家村上春樹のガイド本がイソップ社から出版されました。

 村上春樹。『風の歌を聴け』で鮮烈なデビューをしてから長い歳月が流れた。書き下ろしの長編小説でベストセラーを出す一方で、短編小説をコンスタントに発表。その間に軽妙なエッセイをものし、翻訳も精力的にてがける。著者は、その膨大な作品群を理解するための「見取図」を示す。さらに、ディープな春樹ファンならではの、従来になかった視点で作家の魅力に迫っている。あなたは本書で、「村上春樹のもう一つの素顔」に出会うかもしれない―。(AMAZON解説より)

 過去にも色々なところで村上春樹論を展開されておられる春樹ファンの宮脇氏だけあって、的確な村上春樹評論と、学者らしく見事にまとめあげた資料集とから なっています。
 まだ村上春樹の作品に触れた事がないけれども昨今の知名度の高さから興味は有る、という方には今現在における最良の入門本では無いかと思います。

 これで興味をもたれたら、文藝春秋社から近く「初めての文学村上春樹」という自選集も出 るようですので試してみられてはいかがでしょうか。

 

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2006/11/10

中原の虹 第二巻

中原の虹 第二巻

  偉大なる母 西太后、死す。
「この国は私が滅ぼす」。その悲壮な決意に、春児(チュンル)は、光緒帝は。
圧倒的感動で描かれる、ひとつの歴史の終焉。中国歴史巨編、佳境!
「春児(チュンル)。春児。私は死ぬけれど、どうかこの国の行末をおまえの目で見定めておくれ。そしていつか、あの世で教えてほしい。陛下、この国はとう とう誰のものにもなりませんでした、ってね」民を愛し、たった1人で清朝を支えた太后の美しくも凄絶な最期。そして最後の皇帝が、玉座に登る。(AMAZON解説より)

 浅田次郎氏の傑作「蒼穹の昴」の続編「中原の虹」第二部が早くも登場です。第一部紹介時に書きましたが、本作品は全体で四部構想を予定しているとの事です。ですから、今回は起承転結の部分に当たる事になります。

 実際、第一部は、新しい主人公張作霖の紹介を通じて清と言う国の衰亡と新しい時代の到来を予感させる「」にふさわしい作品でした。それに続く本作では、いよいよ「蒼穹の昴」で登場した主な登場人物が次々と顔を出し、各々が有機的に結合して本巻のクライマックスである新帝「ラストエンペラー」溥儀の選定と西太后・光緒帝の死へとなだれ込んでいきます。まさしく壮大な「」の章と申せましょう。

 実際の西太后がどのような人物であったのか、今となっては知りようもありませんが、浅田氏は実に深いシンパシーをもってこの稀代の女傑を描ききっています。「蒼穹の昴」からの一貫した壮大な人物造型は、日本におけるあまたの中国小説の中でも白眉ではないでしょうか。
 本巻においてその西太后の最期を描ききった現在、浅田氏の胸中やいかばかりでしょうか。おそらく深い満足感とともに虚脱感にも襲われておられるのではないかと愚推しますが、そこを曲げて「」「」の章を早く読ませてください、と伏して叩頭しお願い申し上げまする。。。

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2006/10/17

ティンブクトゥ

ティンブクトゥ
ティンブクトゥ

は: おや、ご主人様、犬も飼った事無いのに犬の本でございますか?
ゆ: 別に犬が見たくて買ったわけじゃないぞよ、ポール・オースター柴田元幸の黄金コンビだから買ったのじゃ。

作: ポール・オースター
訳: 柴田元幸

犬のミスター・ボーンズと飼い主の詩人ウィリーは初めから気のあう仲間だった。放浪癖のあるウィリーは、一緒に旅をしながらぶっ続けで話をしてくれた。だからミスター・ボーンズは、言葉を理解出来るようになった。そしてウィリーはもう先行き長くないー。出会いの喜び、別れの悲しみ。犬の視点で、世界を描くことを成功させた、オースターの最高傑作ラブ・ストーリー。(単行本帯より)

は: で、いかがでございました、犬小説は?
ゆ: はむちぃ、君何か犬に悪意でも(^_^;)、たしかに"shaggy dog story"て言うのはツマラン小説の事を指すらしいが。まあ、確かにオースターにしてはえらいまともなストーリーの小説を書いたもんだな、彼がこのような「普通の小説」を書くと少し散漫な印象になっちゃいますね。

は: オースター様といえば、ポストモダン的階層性、不条理性、緩やかに崩壊していく自我、静かに破滅へ向かう結末、そして雑多なアクネドートあたりが持ち味でございますからね。
ゆ: そうそう、それが今回の小説では不条理なところと言えば

犬が人の言葉を理解する

と言うところくらいだからね(^_^;)。それって、動物小説の常套手段でしかないからちょっと辛いよね。階層性にしても、ちらっとオースター自身がウィリーの友達として出てくるくらいだったね。あとは犬の夢が階層的なくらいかな。

は: それに今回はあまり横道にそれるような小話(アクネドート)も出てきませんしね。
ゆ: そうそう、ストーリー展開がこれほど一直線なオースターの小説って珍しいよね。まあ、主人公の詩人ウィリーの抑制の効かない垂れ流しのしゃべりの中に出てくる無数の固有名詞や地口あたりが今回はそれに該当するんでしょう。ペイパーバックで読んだ時には殆どすっ飛ばしてたんだけど、今回訳を読んでもやっぱり名詞だけじゃ面白くなかったな、このあたり柴田先生も大分苦労はされてますけどね。

は: では今回はあまり面白くなかった、と言うことで終わりでございましょうか?
ゆ: うーん、でもやっぱりオースターらしいほろっとさせるところや、にやっとさせるところは随所にあったけどね。
は: 例えばほろっとさせるところとはどのようなところで?
ゆ: ウィリーが死の床で、探し続けていた恩師ミセス・スワンソンと遅すぎた再会を果たすところです。
は: それを

蝿になった犬

が見てるんですよね。
ゆ: そう言われると結構シュールだな(^_^;)、読んでるとそうも感じないんだけど。この、ほんの数ページしか登場しないミセス・スワンソンの人物造型が今回一番秀逸でしたね。
は: ではにやっとさせるところは?
ゆ: ユダヤ人の方には大変な問題で、笑うどころじゃないでしょうけれども、ウィリーがブラウン管の向こうのサンタクロースから啓示を受けてしまって腕にサンタの刺青を入れてしまい、敬虔なユダヤ教徒の母親が激怒するところなんかですね。

は: ということで、オースターファン、柴田先生ファンにはそれなりに楽しめる小説でございます。犬好きの方もそうでない方も一度「オースター&柴田」の独特の語り口を経験してみてくださいませ。
ゆ: 本書を上梓されたばかりで申し訳ありませんが、柴田先生にはこの次に出た大作「The Book of Illusions: A Novel(幻想の書)」の訳をとーっても期待しております。

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2006/10/04

中原の虹(1) 浅田次郎

中原の虹 第一巻
中原の虹 第一巻

英雄たちが、大地を駆ける。
隠された王者の証「龍玉」を求めて、壮大な冒険が、いま幕を開ける。
人間の強さと美しさを描ききった中国歴史小説、刊行開始!
「鬼でも仏でもねえ。俺様は、張作霖だ」
「汝、満州の覇者となれ」と予言を受けた貧しき青年、張作霖。のちに満州馬賊の長となるその男は、大いなる国の未来を、手に入れるのか。
栄華を誇った王朝に落日が迫り、新たなる英雄が生まれる。 (AMAZON解説より)

は: おや、ご主人様、何を感涙に咽んでおいででございます?
ゆ: ううっ、はむちぃよ、私は嬉しいぞ、まさかあの傑作「蒼穹の昴」の続編を読める日がくるとは、ううっ、生きててよかった(ToT)
は: 蒼穹の昴と申しますと、浅田次郎先生がお書きになられた清朝末期の中国歴史小説でございますね。ははぁ、先日のサブタイトルで「春児(ちゅんる)再び!」と書かれていたのはこの小説でございますね。
ゆ: そうなのだ、蒼穹の昴で餓死寸前の貧民から宦官になり、西大后に気に入られ出世していく主人公が春児なのだな、残念ながら今回はちょっとだけの顔見せに終わってしまったがのう、第2巻以降が楽しみじゃ。
は: 全4巻の予定でございますからね。

ゆ: そうそう、今回は生き別れになった春児の兄で馬賊の李春雷(リイチュンレイ)にスポットが当たっておりました。
は: 本巻の主人公とも言える張作霖(チャンヅオリン)の子分になるのでございますが、このあたりの馬賊の活き活きとした活写は浅田先生の独壇場でございますね。
ゆ: そうそう、日本史の教科書なら張作霖は

馬賊で日本軍に爆殺された

で終わってしまうんだよね。
は: それでは、何で日本史の教科書にいきなり馬賊の頭領が出てきてその頭領を暗殺する事が、歴史上の転換点になるような大事件なのか、何の説明も無しではさっぱりわかりませんよね。
ゆ: そうそう、それがまだ序章に過ぎないこの小説を読むだけであっという間に納得できるよ、これこそが生きた歴史を勉強すると言うことなんだと思うね。
は: 本当にその時代を追体験しているかのような気分になりますね。
ゆ: それには気の遠くなるほどの取材勉強が必要だったのだろうと思います。浅田先生のこの時代にかける情熱の凄さをひしひしと感じました。

は: あと3巻が待ち遠しいですね、ご主人様。
ゆ: いやいや、この小説がいつか終わってしまうと思うと悲しいよ、第4巻が出る日が逆に怖いくらいです。

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2006/08/24

照柿(文庫化)

 さて、10万キリ番記事の後と言うことで、仕切りなおしで気合入れていきまっしょい!
 ということで、暑苦しいのは承知の上で満を持しての登場です。12年間待ち続けました、文豪高村薫女史の合田刑事シリーズ第二幕「照柿(てりがき)」待望の文庫化です。
照柿(上)
照柿(上)

照柿(下)
照柿(下)

全面改稿 待望文庫化!
「あの人殺しが遂に死んだか」
暑すぎた夏、2人の男が堕ちていく。

ホステス殺害事件を追う合田雄一郎は、電車飛び込み事故に遭遇、轢死(れきし)した女とホームで掴み合っていた男の妻・佐野美保子に一目惚れする。だが美保子は、幼なじみの野田達夫と逢引きを続ける関係だった。葡萄のような女の瞳は、合田を嫉妬に狂わせ、野田を猜疑に悩ませる。

難航するホステス殺害事件で、合田雄一郎は一線を越えた捜査を進める。平凡な人生を十七年送ってきた野田達夫だったが、容疑者として警察に追われる美保子を匿いつつ、不眠のまま熱処理工場で働き続ける。そして殺人は起こった。暑すぎた夏に、二人の男が辿り着く場所とは―。現代の「罪と罰」を全面改稿。(AMAZON解説より)

 高村薫女史の作品中でもとりわけ人気の高い合田刑事三部作とは「マークスの山」「照柿」「レディ・ジョーカー」を指します。なかなかの壊れっぷりを見せる合田雄一郎と義兄の検事加納祐介とのほのかな交感が女性ファンにはたまらんようです(^_^;)が、もちろんそれだけではありません。
 高村作品を貫くその圧倒的なリアリズムが、警察と言う組織を徹底的に白日の下に晒していく過程、登場人物の容赦ない心理描写、巧みなストーリーテリング等が、凡百のミステリーや推理小説を圧倒する、日本ミステリー界の最高峰を形成する内容を備えた傑作3部作といえましょう。実際、合田刑事が退屈しのぎに読む推理小説を嘲笑する場面も出てきますから、高村女史も相当の自負を持って書いておられるのでしょう。

 さてこの「照柿」、12年前初出版時、ファンには圧倒的な高評価を得て傑作の仲間入りをした作品です。
 他の2作品が映画化されていて、この作品はされていない(確かTVドラマ化はされました)ことから分かるように、ストーリーの面白さという点では一番地味な作品です。しかし何と言っても壊れていく人間たちの心理描写が凄い!宣伝文句どおりドストエフスキーの「罪と罰」に肉迫する内容を持っています。実際、今回の解説を読むと、本当に「罪と罰」を意識した作品を書いて欲しいという要請があったとか。しかし、それにすんなり応えるばかりか「白痴」や「悪霊」の精神性をも包含する作品を書いてしまうとは何という人なんでしょうか。

 ネタバレはいけませんので上記解説程度の梗概だけにしておきますが、とにかく

熱気
不眠
焦燥

が全編を貫いていて、照柿色に染まっています。ですので、とにかく

暑苦しい。

特に野田達夫の勤める工場内の描写など、本当にこちらも汗が吹き出してきて気分が悪くなりそうなほど。恐ろしいほどの取材力と筆力です。それに女史特有のハイブラウな文学・芸術の知識が重なってくると分けがわからないうちに高村ワールドへどっぷりと浸って身動きがとれなくなります。この

膠着感

というのは三部作中でも群を抜いている気がします。えっ、そんな小説読めるか!って、まあまあお客さんダマされたと思って読んでみなさいって(テキヤ風。

 さて、読者にとって悩みでもあり楽しみでもあるのは、女史の責任感と自負のせいか、出版の機会があるたびに必ず改稿が行われる事。極端な例を挙げれば「この手に拳銃を」など「李歐」というほとんど別の作品になってしまいました。
  ですから、以前MAO.Kさんから、「高村薫女史は頻繁に改稿するのでいつ読んでいいかわからない」旨のコメントを頂きましたが、まあ当然の意見だと思い ます。しかし、ファンとしてはその都度読むしかないのですよ。最終稿が完成形というのでもなく、その時点その時点でベストの作品に仕上がるように書いてお られるらしいですから。

 さて、その改稿度ですが、悲しいことに原作が現在拙宅にないもので正確には比較ができないのです(をい、、、が、一読した限りではそれ程ドラスティックな改稿はなく基本的には前作と大きくプロットの変わるところはありませんでした。旧作ファンも一安心。
 解説やファンサイトを覗いてみましたが、贅肉をそぎ落とす感じの文章のブラッシュアップ、合田と加納兄妹との経緯の若干の変更、次作レディ・ジョーカーへの橋渡しを意識した記載追加等が目立つ程度のようです。

 びっくりしたのは野田達夫の父が入れられていた有料老人ホームが「奈良県橿原市」にあると書いてあった事、なんと私の故郷なんですよね。前作でも書いてあったんだろうか?あったら強烈に印象に残っていると思うのですが。

 まあそれはともかく、個人的に一番の改善点だと思うのは合田と野田達夫の距離。私の記憶が確かならば、初版では最後に合田が確か

好きやっ

と叫ぶのですが、「こりゃ男色趣味が過ぎますぜ、高村女史!」と思いましたね。今回その様な記載はなし。すっきり!でもその分加納との距離が縮まってる気もしますが(^_^;)

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2006/08/01

英語は関西弁に通ず

 ある方から英語青年2006年8月号を譲り受けました。教師向けの硬い雑誌だろうと思っていたら結構面白い。本の宣伝ページなんか食指そそられまくり。今月は月始めにしてもう金欠状態なのに(涙。
Eigoseinen

 てなわけで(どういうわけや)、さる筋でさる方から

「何でケビンが関西弁やねん?」

と言うツッコミを頂きましたので、ここで講釈いたしましょう。どういうツッコミかはこの際訊かないでくださいm(__)m
 この英語青年pp295-297に南山大学教授村杉恵子先生と言う方が

「方言から言語理論へ(上)」

と言う大変難しい論文を書いておられます。ただ、意味のわかるところだけ拾い読みすると(B型!)結構面白い。なんと英語は関西弁に通じるのです。「補文標識の脱落」と言うテーマなのですが、わかるところだけ引用すると(をい、

1-a: John thinks (that) Mary is smart.
1-b. John knows (that) the teacher was lying.
2:   [That] the teacher was lying, John already knew.

このthatが補文標識なんですが、英語の場合、1-a,bのように通常の位置に補文があるばあい、thatはあってもなくてもよいわけです。これを随意的と言います。ところが、2のように補文が文頭に位置すると無くす事ができません。これを義務的と言います。

 翻って日本の標準語である東京方言を見てみましょう。この場合補文標識は(と)です。

3-a: 太郎が[神戸にいく(と)]言った。→省略不可
3-b: [神戸にいく(と)]太郎が言った。→省略不可

このように補文がどの位置にあっても(と)は必須で省略する事ができません。ところが、関西方言はどうか?ということで神戸方言が例として載っています。この場合補文標識は(て)に変わります。

4-a: ジョンが神戸に行く(て)言うた。→省略可
4-b: [神戸にいく(て)]ジョンが言うた。→省略不可

なんと!英語と同じく補文が通常の位置なら(て)は随意的で文頭に来ると義務的なのです。この際、なんで太郎がいきなりジョンになるねん?などと言う野暮なことはききっこなしです(自爆。また、4-aにおいては(に)も省略できるやん、関西弁はルーズなだけや、などという非学術的な突っ込みも入れないでおきましょう(自爆x2。

というわけで、英語と日本語は全く構造が違いますが、英語と関西弁には脅威の共通点がありました。どうりで外人さんは関西弁がうまいわけだ(納得。

次号ではもっと面白いことになるとの前振りが(^_^;)、買おうかな。

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2006/07/15

うらなり

 久しぶりに小林信彦氏の作品を読みました。知的好奇心を満たしてくれる佳作です。
うらなり

『坊っちゃん』から100年、“うらなり”が見た人生の真実。明治、大正、昭和を生きたひとりの知識人の肖像を卓抜な着想と滋味あふれる文章で描き出した著者渾身の小さな大傑作。

 夏目漱石の「坊っちゃん」は日本人なら(少なくとも昭和世代までの人なら、と断りを入れねばならない時代かもしれませんが)一度は読んだ事のあるはずのポピュラーな作品でしょう。
 実は漱石の作品でこんなに明るい青春小説はおそらくこれっきりだったと思います。ロンドンで鬱に陥った事のある漱石ですが、逆にこの時期は躁だったのかもと思わせるほど。しかも創作ノートによると「猫」と同時進行で短期間で書き上げたとの事で、勢いに任せて書いた面は否めません。その勢いが乗り移ったような主人公の江戸っ子坊っちゃんは、四国の田舎の学校を引っ掻き回してさっさと東京に帰ってしまうわけですが、そこで誰もが感じる違和感をずばりついたのがこの小説です。

 小林氏の執筆の動機は

「本当はうらなり先生にとって坊っちゃんははた迷惑なだけの理解不能の人間だったのではないか」

マドンナをめぐる騒動の主人公は、うらなり山嵐教頭赤シャツであって、坊っちゃんには何の関係もないのに何故あんなに張り切っているのか」

というところ。そのあたりを大正の世の中まで生きたうらなり山嵐の東京での再会を軸に丹念に描いています。

 日本文学はもとより、古典芸能、喜劇、TV界に精通し、東京をはじめとする日本の昭和からの変遷を肌で感じてこられ、そして何よりも常識というものをしっかりわきまえておられる小林氏の筆致は、漱石の原作の雰囲気を少しも損なうことなく、後日談として立派な作品に仕立て上げられたと思います。
 また、創作ノートは一つの「坊っちゃん論」「漱石論」としても読めるほどしっかりしたものです。敢えて言うとこちらの方が面白いと思われる方があってもおかしくないほど。

 個人的には「マドンナ」という大層なニックネームをつけられているとは言え、当時で言えば「片田舎」の育ちのよい美人が、その後どのような人生を送ったのだろう、栄華の夢は見られたのだろうか?と長年思ってきましたが、この小説の設定には結構納得してしまいました。

 また、坊っちゃんの名前は××××、という点については全く忘れていました。小林氏も驚いたようですが確かに興味深いです。

 また漱石の本を読みたいな、と思わせれば小林氏の本望でしょう、今度実家に帰ったら読んでみようと思いました。

 

 

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2006/06/29

わたしを離さないで / カズオイシグロ

は: 今回は久しぶりに書評でございますね。
ゆ: そうそう、実は高校同期の読書家N君がMLで紹介してたんだけど、なんと私を直接ご指名で是非読んでみて下さいと書いてあったもんでね(^_^;) 
は: 「日の名残り」で有名な日系イギリス人小説家カズオ・イシグロの6作目の長編小説「Never Let Me Go/私を離さないで(土屋政雄訳)」でございますね。
わたしを離さないで
わたしを離さないで

は: 「日の名残り」は私と同じ優秀な執事が主人公の心に沁みる物語でございました(ウルウル(;_;))
ゆ: それを言いたくて「日の名残」を出してきたね、はむちぃ君。それならこっちもキャメルの「Never Let Go」を出さねばのう。
は: Meが抜けております(-_-;)。主体性を持って下さいませ。まずは梗概でございますが、

自他共に認める優秀な介護人キャシー・Hは、提供者と呼ばれる人々を世話している。キャシーが生まれ育った施設ヘールシャムの仲間も提供者だ。共に青春の日々を送り、かたい絆で結ばれた親友のルースとトミーも彼女が介護した。キャシーは病室のベッドに座り、あるいは病院へ車を走らせながら、施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に極端に力をいれた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちの不思議な態度、そして、キャシーと愛する人々がたどった数奇で皮肉な運命に……。彼女の回想はヘールシャムの驚くべき真実を明かしていく――英米で絶賛の嵐を巻き起こし、代表作『日の名残り』を凌駕する評されたイシグロ文学の最高到達点(AMAZON解説より)

ゆ: さて、主体性を持てといわれたのに何ですが、
は: 何ですか? 
ゆ: 実は私の好きな翻訳者柴田元幸が解説しておられるのだ。研ぎ澄まされた感覚でもって、短いセンテンスでこの小説の本質を言い当てた彼の文章を引用してみましょう。

細部まで抑制が利いていて、
入念に構成されていて、
かつ我々を仰天させてくれる、
きわめて稀有な小説である(柴田元幸)

は: なるほど、確かに抑制の利いた丁寧な心理描写が光る良い小説でございました。構成も入念で、今までの小説と秘密の明かし方がちょっと変わっているなと、はむちぃメ思いました。
ゆ: そうそう、そうだよね。ある意味最初からネタは割れていて、おそらくこう言う事なんだろうな、と思って読み進んで行くと結局その通りだった、というあまりビックリするところの無い展開なんだけど、
は: それが逆に効を奏していて、主人公たちと同じ意識で最後の謎に臨める為に凄くシンパシーが持てますね。主人公たちが唯々諾々として運命を受け入れてしまうところも哀れを誘います。
ゆ: ネタバレになるから言わないけど、同じテーマを扱っていながら以前紹介した某SF映画のような展開を取らないからね。ちょっと趣向は違うけれど「ブレードランナー」のルトガー・ハウアーたちのような哀れを誘う面が確かにあるよね。

は: 次に柴田先生が仰天させてくれるとおっしゃっておられる事についてはいかがでございました?
ゆ: 柴田先生の言わんとする事は分かっていますが、最初に書いた通り、作者は最初から素直に情報を小出しに出していますから、個人的にはそれほど仰天はしませんでしたね。まあ言っちゃあ悪いけど、SFの分野ではもうかなり手垢のついたネタですからね。
は: しかしあまりSF小説と言う感じはいたしませんね。
ゆ: そうだね、

これがSF小説か?

と言われると良い意味で違和感があるよね。現在という混沌とした時代にあってSF小説と純文学の境目を云々するのもナンセンスな気もするけれども、敢えて言うと

ドストエフスキーの「罪と罰」は推理小説か?

と問われたような困惑に似ているかな。
は: 主人公たちの幼い頃から成人するまでの細かい性格描写、心理描写、そして少しずつ見えてくる寒色系の外界の風景、運命の厳しさの淡々とした描き方、どれを取っても一流の純文学と言って過言ではございませんね。
ゆ: お見事はむちぃ君、良くまとめました。その通りかと存じます。ただし、訳文を読んだ限りでですが文体にはまだ生硬なところがあるような気がします。実直すぎて面白みにかけるというか、もう少し文章自体で遊んでもいいんじゃないかと思いましたね。
は: この漫談は文章で遊びすぎと言う意見もございますけれどね( 一一)念のため申し上げておきますと土屋先生の訳はすばらしいものですよ、皆様。

は: ところで同級生のN様がご主人様を直接ご指名なさったのはどうしてでございます?
ゆ: まあ、一応学生時代は「国語のゆうけい君」と呼ばれてた、と言うところでヨイショしてくれてるんだろうけど、それより何より職業柄この小説を読んで医の倫理的なものについて感想を求めたいと言うことなんでしょうね。
は: なるほど、テーマがテーマでございますからね。
ゆ: でもまあ、この小説で医の倫理を云々するのは野暮じゃあないかな、と言う気がします。この小説の本質は

限られた人生を限られた環境の中で生きる人々の心理的葛藤をシミュレートしてみる

という実験小説的なところにあって、医学的な問題はテンプレートとして利用したに過ぎないのじゃないかなと思うのですが、、、
は: が、敢えて答えるとすれば、、、
ゆ: 明確な自我を持った人たちをこういう風に利用することはありえないだろうと思います。単純な結論ですみません。

は: では、最後に一言お願いします。
ゆ: 表紙のカセットテープ、物語の中でも特に哀しみを誘うエピソードのキーパーツなのですが、もともとカセットと言うのは宝箱という意味だったと思うのです。カズオ・イシグロがそこまで考えて使ったのだとしたら、けっこう粋な遊び心を持った人だと思いますね。

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2006/04/06

水に似た感情 / 中島らも

 もう一題は故中島らもさんのバリ紀行。といってもらもさんですからただの紀行小説ですむわけがありません。以前読んだ記憶があり、今回バリから帰ってきてから無性に読みたくなり、探しまくっていたのですが見つからず、結局もう一回買うハメになりました。

水に似た感情
水に似た感情

人気作家・モンクは友人のミュージシャンたちとテレビの取材でバリ島を訪れる。撮影はスタートするが、モンク自身の躁鬱と、スタッフの不手際や不協和音に悩むが、呪術師を取材し超常現象を体験した後、モンクも落ち着きスタッフもまとまる。帰国したモンクは親しい友人たちを誘い再びバリを訪れるのだが。リアルに迫りくる幻想体験を通じ、なぜか読むほどに心安らぐ小説。 (AMAZON解説より)

 

 アルコール依存症に端を発した躁鬱病の赤裸々な描写がバリと日本を舞台に展開される、まあ言ってみれば壮大な闘病記録です。正直なところ現実には一番お会いしたくないタイプの患者さんなのですが、さすがにらもさん、薀蓄と筆力でぐいぐい読ませます。この病気に関しては専門ではないのですが、文中のいたるところにちりばめてある症状の発露が興味深く、それとバリの濃厚な神秘の雰囲気が妙に巧くブレンドされ、類い稀な紀行文と化しています。

 もちろん現実にらもさんはチチ松村さん等とバリを訪れておられるわけで、本人もこれは「ノンフィクションである」と文庫版あとがきに書いておられます。そのバリの描写は、行ってきたばかりだったのでやっぱり何か懐かしいものがありました。また、らもさんも「地球の歩き方」を読んでたんだなあと思うと妙におかしくなりました。

 これを読んだあと、ブサキ寺院へ行けなかったこと、ジェゴグの演奏を聴けなかったことはやっぱり残念だったなあとちょっぴり後悔しています。ただ、ジェゴグはガイドブックにも書いてありましたが、現地の人はあまり知らないようでスカちゃんもあまり知らないようでした。文中に出てくるスウェントラ氏は「地球の歩き方」にも載っている実在の人物でいらっしゃいますが、海外での評価の方が圧倒的に高いそうです。

 まあ、万人におすすめできる本ではないですし、らもさん自身がこの文庫版あとがきで

本書は『噂の真相』に「小説の体をなしていない」と酷評された。それはまことにその通りで、万人向けの小説の文法にのっとって書かれていない。躁病の意識の許に書かれている。

と、断りを入れておられます。私などは、これが小説の体をなしていないなら別に体をなしている小説など読みたくもない、と思ってしまう口ですが、ここはらもさんのおっしゃるとおり、こわいもの見たさ、物珍しさ、で読んでみたければどうぞ、と申し上げておきます。
 もうひとつ、らもさんは「バリへ行かれるのなら、ビーチと買い物だけで満足せずバリのディープなところまで入り込んでほしい」と勧められていますが、これにはかなりの覚悟が必要です、と申し上げておきましょう。

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2006/04/04

Oxford Bookworms Library

 本の話題を2回ほど書いてみたいと思います。先日バリ紀行の記事で「持って行った本をあっけなく読んでしまった」と書いたのですが、実はこんな本を持っていきました。
 Oxford Bookworms Libraryという、過去の名作を子供から学生が学べるように難度をStage1-6に分けて編集したシリーズです。実は旅行前に街へ出かける機会があって、紀伊國屋書店でなんか持ってく本ないかな~とぼんやり書棚を眺めていて見つけました。これくらいだと、電子辞書を持っていかなくても済むし、飛行機中でもホテルでも肩が凝らない程度で読んでしまえるんじゃないかと思ったわけです。

Tooth And Claw - Short Stories
Tooth And Claw - Short Stories: Stage 3: 1,000 Headwords (Oxford Bookworms)

 Sakiという小説家の事は大学の英語の講義で初めて知った記憶があります。結構数奇な運命をたどった英国の小説家なのですが、動物をテーマにしたブラックユーモアあふれれる短編をたくさん書いておられます。
 実は村上春樹の「海辺のカフカ」に猫との会話のシーンが頻繁に出てくるのですが、どうも既視感のようなものを覚えていました。もちろん猫がしゃべる小説というのは五万とあると思いますが、ちょっとブラックな雰囲気をたたえた小説で、ということです。
 Sakiの名前を書棚に見つけて、彼かな?という思いがあり買ったのですが、「Tobermory」という小説がそうだと分かりました。人間語を教えられてしゃべれるようになった大きな屋敷の飼い猫が、あちこちの部屋で聴いた秘密の会話や独り言をばらしてしまい、その家の家族、客人のお互いへの嫌悪感が露わになってしまい、みんなが非常に気まずくなってしまう、という筋でした。それ以外にもなかなかひねりの効いた辛辣な短編が収録されています。子供用とは思えない内容の気もしますが(汗。

Love Story
Love Story (Oxford Bookworms Library)

 一転して臆面も無いラブ・ストーリー。映画「ある愛の詩」の原作です。社会現象にまでなった宣伝文句が「愛とは決して後悔しないこと」でした。実はちょっと前、nemotaさんのブログでこれは英語でなんと言ったっけなあ?という問があり、うろ覚えで答えたのですが、今ひとつ自信がなかったんですよね。それが頭にあって、手が伸びました。さて、その答えは

Love means you never have to say you're sorry.

でした。もちろん映画中で使われたセリフには違いないのですが、ラストにこれだけ効果的に使われたセリフだったとは不覚にも覚えていませんでした。
 個人的には冒頭の一節

What can you say about a twenty-five-year-old girl who died?

との方が妙に心に残っています。「わずか25歳の若さで死んでしまった女の子について何が語れるというのだろう?」というような字幕だったと思います。その割には色々語っていて(^_^;)

彼女は美しくて聡明だった。
彼女はモーツアルトとバッハとビートルズが好きだった。そして僕と。

キザですね~、それに畳み掛けるように、

一度尋ねてみた事がある、どれが一番好きなんだと、彼女は微笑みながら答えた。ABC順かなと。僕も笑った。

彼の名前はOliver Barrett。だから名前だとびりっけつになってしまうし、姓でもバッハに次いで二番でトップには来ない。彼の家系はハーヴァードに講堂を寄付するくらいの名門なので、

一番にならないと許されない環境に育った、だからこのことはとても僕を不安にする

のです。わずか数行で自分の名前、立場、そして恋人を失ったことを語ってしまう、見事な語り口ではあります。
 映画では冬のセントラルパークでスケートを見ているシーンだったような気もするのですが、それが冒頭に出てきていたか?といわれるとちょっと記憶が曖昧で、また機会があれば見てみようと思います。

 まあ、正直なところちょっと簡単すぎて、行きの飛行機で2冊とも読みきってしまいました。今度機会があればこれの原書をもっていこうかなと思ったりしています。

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2006/03/10

ある編集者の生と死ー安原顯氏のことー

 今月号の文藝春秋村上春樹氏が寄稿しておられます。といっても決して愉快な話題ではなく、皆さんニュースでご存知だと思いますが「生原稿流出事件」に関する告発と言ってよいものですが。スーパーエディターと呼ばれた中央公論社の名物編集長安原顯氏の出会い、不本意な訣別、そして安原氏による生原稿流出事件のことが彼独特の文体で丁寧に描写されています。
 安原顯(通称ヤスケン)氏は我々のようなオーディオファイルにとっては晩年のオーディオへの熱中振りのほうが強く記憶に残っていますが、私には二つ疑問に思っている事がありました。

1: 村上春樹を育てたと言われる人が、何故後年掌を返したように彼を批判し続けたのか?
2: 癌末期と公言している方に、あれだけ高額なオーディオ機器を次から次へ買っていける財力があるのか?

 多分に不本意ではありますが春樹氏の文章を読んでぼんやりとながら納得できた気がします。これ以上勝手な推測を書くと名誉毀損にも当たりかねないので、興味がある方はご一読ください。ただこの文章にはオーディオに関しては一切触れられていないので、傍証として私が覚えている限りでの彼が最晩年に揃えたオーディオ機器を紹介してみましょう。

CD Player: Linn CD12 (定価280万円、現在生産中止)
Control Amplifier: Mark Levinson No32L (定価320万円)
Power Amplifier: McIntosh MC602(?) (定価120万円)
Loudpeakers: B&W Nautilus 801 (定価210万円)

 もちろんこれだけでは済みません。特に安原氏は寺島靖国氏と親交があっただけに、ケーブル類に対する熱情も尋常じゃなかったと思います。この世界、ケーブル一本ウン十万円が当たり前の世界です。その当時は癌末期にしてこの熱情、とある意味尊敬してみておりましたが、今回の春樹氏の文章を読むとう~ん、これはいかんーーーと思ってしまいました。

 それにしても事ここに至っても、村上春樹氏の他者への思いやりは、彼独特の文体とあいまって私のようなファンには鮮烈な印象を残してくれます。凡百のエッセイや短編小説を超える文章の「力」と言うようなものを感じます。

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2006/02/20

新リア王/高村薫

 高村薫の壮大な青森サーガ三部作の第二部新リア王をようやく読了しました。かなり大変でした。

新リア王 上
新リア王 上

新リア王 下
新リア王 下

    保守王国の崩壊を予見した壮大な政治小説、3年の歳月をかけてここに誕生!
  父と子。その間に立ちはだかる壁はかくも高く険しいものなのか――。近代日本の「終わりの始まり」が露見した永田町と、周回遅れで核がらみの地域振興に手を出した青森。政治一家・福澤王国の内部で起こった造反劇は、雪降りしきる最果ての庵で、父から息子へと静かに、しかし決然と語り出される。『晴子情歌』に続く大作長編小説。(AMAZON解説より)

 詳細を解説しだすときりがなくなってしまうので、冒頭リンクをご参照ください。さて、本作品は、連載していた日本経済新聞側と途中打ち切りですったもんだして、しかも次が渡 辺淳一の「愛の流刑地(通称愛ルケ)」だったので、普段読みもしてない日経に対し激しい憤りを覚えていましたが、う~ん、日経側の気持ち、読者の気持ち、わからんでもないなと思いました。

 正直言って小説としてはかなり退屈であり、また難解な宗教用語には辟易します。特に前半は永田町の一日と永平寺の修行を延々と語る事に費やされるため、何度か挫折しそうになりました。そりゃ、朝っぱらから電車の中でこんな小難しい文章を読まされるよりも、愛ルケ読んでニタニタしてるほうが仕事前の精神衛生上はいいでしょうね。

 高村薫女史の持ち味は、細部までの徹底したリアリズム、容赦ないまでの苛烈な人物描写、そして巧みなストーリーテリングの面白さと言ったところであったと思います。
 確かに戦後政治の成り立ちと崩壊そして光と闇が、女史の得意とする原子力行政を軸に重層的に見事に描写されていますし、女史の最近の興味の対象である仏教への深い造詣も恐ろしく深いところに達しているようです。ほんと、大学の政治史や禅宗のゼミでもあれば十分教材に使えるんじゃないでしょうか。
 しかしそれをつきつめたあまりに、女史の持ち味の一つであったストーリーテリングの面白さをばっさり捨ててしまったところにこの小説の難しい面があります。たとえば昔修士論文くらいの価値は十分にあると言われた小松左京氏の「日本沈没」は、プロットの面白さにおいても一級品であったがゆえに驚異的なベストセラーとなりました。新リア王も、女史の力量をもってすれば、或いは過去の人気のある登場人物を繰り出してくれば、もっとスリリングな展開に持ち込むことも容易にできたはずだと思います。敢えてそれをしなかったところに高村薫女史の覚悟なり、三部作という構成への強い思いなりがあるのでしょう。

 となると、気は早いですが、次の一手(最後の第三部)はどう繰り出してこられるのかが気になります。今回これだけトラブって発表の場はあるのか?それとも書き下ろしか?といったところも心配の種です。出版社としては今回チラッとその存在を垣間見せた、高村作品で最も人気のある合田刑事を起死回生の一手として使って欲しいでしょうね。

 あとは、個人的な思い出話などを少し。

 この小説は実在の国会議員が実名でバンバン出てくるところが話題になりました。そしてこの小説は1987年の11月という設定です。時あたかも田中派が分裂し、竹下登氏が着々と勢力を伸ばしていく時期に当たります。だから、竹下氏も実名で登場して重要な役割を果たしています。
 実は丁度この時期私は東京の某大学に国内留学していたのですが、その当時御世話になっていた教授が島根出身で、お父上も郷里で要職についておられたものですから、竹下氏とかなり親しい間柄だったようです。

「何でも困った事があったら私に言ってください、竹下の秘書に話をつけますから」

とおっしゃってたことを思い出します。実際当時の竹下事務所に不可能はないんじゃないかというくらい凄い力を有していたようです。卑近なところで言うと、コンサートチケットを手に入れることなんか朝飯前で、「ローリング・ストーンズのチケット手に入りにくかったら言ってくださいよ、前日でも手に入れますよ」とか教授に言われたこともありました。さすがに遠慮しましたけれどね。

 しかし栄枯盛衰は世の習い、そのたった2年後には竹下氏の秘書の青木伊平氏の自殺という悲しい事件がおこります。新リア王では主人公福澤榮の金庫番である秘書が自殺する事件を軸にして話が展開します。この秘書はもちろん架空の人物ですが、どうしても青木氏の自殺とダブってしまいました。

あまりに深く欲望とつながりすぎ、もはや欲望につきものの暴力ですら横目で眺めて目するのが習い性となったこんな政治。たかが政治家の権力闘争に過ぎぬものにおいて、かくも醜悪な暴力装置が働く、こんな政治の一端にぶら下がってきたという事実(下巻p332)

新リア王たる福澤榮の痛恨の思いの一端です。思わず先日のライブドア関連の変死事件などを思い出し、闇の世界は今もなお厳然として存在する、と暗澹たる気持ちにさせられました。

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2006/01/22

病院が大震災から学んだこと

 いきなり恐ろしくシリアスな記事を書かせていただきます。ビックリしないでくださいね<m(__)m>
 1.17にはこのブログや他所で皆さんからいろいろなコメントを賜りありがとうございました。まだ自分で語るべき言葉を持たない、と去年も今年もお茶を濁してきましたが、よく考えればもう自分の職業も明かしてしまってるわけで、この本だけはどうしても紹介させていただきたいと思います。そしてこの本を元にあの時のことを少しは語ろうかと思います。

病院が大震災から学んだこと―神戸・新須磨病院(AMAZON在庫切れ)
病院が大震災から学んだこと (続)
病院が大震災から学んだこと (続)

 神戸市須磨区、須磨水族園の北側に位置する神戸では大変有名な病院である、新須磨病院澤田勝寛院長がおまとめになった本です。「病院が大震災から学んだこと」の方を大震災後まもなくして発表され大変な話題を呼んだのですが、それに甘んじることなく、10年目にも大震災を振り返り再度おまとめになられました。
 あの日あの時病院の職員はどう考え、どう行動したのか、そして病院は如何にして未曾有の危機を乗り切り、病院としての機能を再開させていったのかが、あらゆる職種の方々の証言をもとに実に分かりやすく、且つ克明に記録されています。一般の方々には病院のリスクマネージメント、経営戦略の項はとっつきにくいかもしれませんが、掲載されている「災害対策ニュース」1-15号は、どなたが読まれても、正確な情報伝達の持つ重みに胸を打たれるのではないでしょうか。

 率直に申し上げて、私が自分で語るべき言葉をまだ持たない、という言葉を使い続けたことの裏には強い悔悟を残し、トラウマとなっている事があるのです。それは、

山一つ越えればいつでも手伝いに行ける所にいながら何もしなかった

という自分の行動力の無さに対する深い嫌悪感、無力感なのです。実は新須磨病院というところは自分にとって、あの大震災のたった3ヶ月前まで2年間も勤めさせていただいていた病院だったのです。だからあの日、被害の規模がはっきりとマスコミから伝えられるようになってまず脳裏に思い浮かんだのは「新須磨病院は大丈夫だろうか?」ということでした。つながらない電話を何度も何度もかけ続けたすえ、やっと当時のA事務長につながり、「大丈夫です」という御言葉を聞いた時、どっと体中の力が抜けていくのを感じたことを昨日の様に覚えています。「手伝いが要るなら何時でも言ってください!」と伝えて切ったものの、向こうからは電話も無く、事実として一度も手伝いに行くことはありませんでした。この本を読んでいただくとわかりますが、私のようなものに電話をしていられるような状況ではなかったのです。

 もちろん、暇を持て余していたわけではありません。当時私は関連の3箇所の病院、診療所を掛け持ちしていてスケジュールは非常にタイトでした。(そのうちのひとつは中国自動車道が動かずしばらく行き来できませんでしたが)
 時々TBしてくださるE先生が以前自らのブログに書いて下さいましたが、彼は大震災当日に奇跡的に当直に来てくださって、二人で寝ずに救急対応にあたりました。その日からずっと、多分その週は自宅に帰らなかったと覚えています。

 家族はその日に家内の実家へ避難させました。タンスの上から落ちてきたオイル缶で鼻骨を骨折した息子(そう、今日センター試験を受けているはむちぃの天敵です^^;)の事 が心配で、あの日は家族全員を病院に連れてきていました。夜になって、家内の弟君が車を飛ばして当院まで迎えに来てくれたときは本当にホッとしたものです。

 その後もしばらく、神戸の辺境にある自分の病院でさえライフラインや食糧供給は心もとないものでしたし、ひっきりなしに震災中心地からの転院依頼があり、病床数の限度を越えて受け入れていました。大学の後輩から涙声で「一刻も早く手術しなければいけないのに手術ができないんです。先生お願いします」と頼まれた時にはこちらも涙ながらに引き受けたことを覚えています。この患者さんを運んでいただいたのは確か岡山救急の救急車でした。(その時、大学附属病院でさえ死体安置所のようになっていると聞かされ、胸の締め付けられるような思いもしました。)この患者さんは今でも御元気で通院していただいています。

 更にはその後、当地の周辺に数多くの仮設住宅が建てられたことが急激な人口増加をもたらし、外来患者が急増しました。田舎の病院だったところが、様ざまなところからの住民の方々が集まるわけですから、気質といういうものがまったく異なる方々に対応しなければならずそれは大変でした。マスコミが書きたてた美談ばかりではないよ、というのはこのあたりの苦労の事を意味していると思っていただいて結構です。

 人口増加は更には恐ろしいまでの交通渋滞を惹き起こしました。なんとか地元民しか知らない山道で通勤を、と思ったもののそこには巨大なごみ処理場があり、震災の廃材を運ぶトラックでそれ以上の渋滞と異臭ーー。

 何もかもが神経を疲弊させていき、結局自分の仕事をこなすことで精一杯、という日々が続き、2ヶ月ほどが過ぎていきました。以前書いた事がありますが、3月に初めて大阪に出て、震災地以外は何事も無く日々の生活が続いている、と身に沁みて知りました。その日の山本潤子さんのコンサートでは最初から最後まで涙が止まりませんでした。

 それでも、やはり自分は新須磨病院へ何とか手伝いに行けたんじゃないか、という思いは消えません。状況がようやく落ち着いてから、かつての同僚と会える機会があり

「MRがふっとんだ、ガンマナイフのアンカーボルトが歪んだ、病院の殆どの機能が麻痺して逆に医療というものの原点を見た」

と聞かされた時は涙が止まりませんでした。自分のやってきた事は通常の医療行為であり、未曾有の大震災と言う危機的状況からは程遠い、当たり前の事をしていたに過ぎないのだ、と思い知らされました。3ヶ月前まで勤めていた病院に何故助けに行けなかったのだろう、せめてもお見舞いにいけなかったのだろうと思う都度、悔悟と自己嫌悪にさいなまれました。

 ですから、澤田先生が、当院に「病院が大震災から学んだこと」を送っていただいた時、それを読むことには本当に勇気が要りました。ページを開くことが恐くて1-2ヶ月は放っておいた記憶があります。実際勇気を出して読み始めると、毎ページ、知っている人たちが想像を絶する経験をされておられることが手に取るように分かります。数行読むと涙が出て全く読み進むことができませんでした。
 続編を10年後に送っていただいた時、今回は冷静に読めるはずと思って読み始めたときも、やっぱり涙で読み進むことができず、行けなかった事への再びの後悔が胸をよぎりました。

 それでも読まなければいけなかった本であることは間違いありません。自分は澤田先生のご好意で贈呈していただいて読んでおきながら、皆さんに買ってください、ということは心苦しくはあるのですが、よろしければお手にとって読んでみてください。

 最後に、この本に出てくる方々の中にはもう鬼籍に入っておられる方もおられます。震災の犠牲者の方々ともども、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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2006/01/05

桜の森の満開の下

 正月休みにどうしても読みたかったのが、坂口安吾の名作を英訳したこの本。hirakuさんのブログで知って買ってあったんですが読む暇がありませんでした。
英語で読む桜の森の満開の下
英語で読む桜の森の満開の下

 この小説は、安吾はあまり読んでない私でも昔読んだ記憶がありますし、たしか岩下志麻さん主演で映画にもなっている、坂口安吾の小説の中でも有名な短編です。それをロジャー・パルヴァースという方が英訳し、見開きで左側が英訳、右が原文で書いてあります。この方の事は知りませんでしたが、考えに考えて修辞を尽くす方でした。
 
 冒頭の数行は原文だとなんでも無い平易な文章なのに、英語で読むと

いきなり挫折しそうになりました(>_<)

 安吾の文章は、句点が多くて読点が少ない、一文の長い分体ですから、英訳すると大変なことになるんだなあ、と変な感慨を覚えました。それでも何とか乗り越えて読み進めていくと圧倒的に面白くなってきて、最後まで息つく暇もなく読んでしまいました。その後原文だけ読み返し、そしてその後に英訳文でも、もう一度読み返してしまいました。一粒で三度美味しいとはこのことですね。

 昔読んだ時はこんなに感動せず、中世の奇譚集の現代版かなと思った程度でしたが、英語と一々照らし合わせてひとつの文章をじっくりと吟味することで、安吾のレトリックの見事さとアイロニーの深さを再認識しました。

 英訳も本当に考えに考え抜いた文章だと感心しました。詳細はhirakuさんのブログを参考にしていただけると幸いですが、私は単純に下記の太文字のようなところがネイティブ・スピーカーの修辞を尽くそうとしたところなのだろうなあと思いました。

桜の森の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったのかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独でありました。

No one living today can fathom the mystery of the space in the woods beneath the cherry blossoms in full bloom. Who knows, it might be what we know as solitude behind the mystery. After all, the man no longer had his solitude to fear. He was solitude personified.

 fathomはもともと水深を測ると言う意味ですが、ハリー・ポッターシリーズでも確かにこういう使い方をしていたのが記憶に残っていて強く印象に残りました。そして次の文章にwho knowsと継げるところも、良く考えておられるなあと思います。とどめは「彼自らが孤独」というのをsolitude itselfとせずにsolitude personifiedとしたところ。まあ素人を唸らせる程度の修辞なのかもしれませんが、クライマックスの場面であることもあり、余計に強く印象に残りました。

 訳者のご努力は続いて載っている訳者ノート、訳者あとがき(何れも上杉隼人氏訳)で更に解明されることになります。

東欧から日本までを渡り歩いたユダヤ系アメリカ系オーストラリア人を自称するパルヴァース氏

が力説されているのは

真に優れた文学には国境や文化の壁などは無く、すべての人類に理解可能である真理を含んでいるのだ

と言うこと。安吾を例にとって言うと、「洗練された鋭いアイロニーのセンス」は東欧や英米の優れた文学に通底するものがあるのだ、と。逆に言うと全てのその国の人々が自国の代表作家のアイロニーを理解しているわけでもなく、それには努力が必要なのだ、と。
 そう言っていただけると、日頃私などが抱いている、ポール・オースターが本当に言いたいことを理解しているのだろうか、とか、ジャズを本当に理解して聴いているんだろうか、とか言う悩みをやわらげて頂ける気がします。そういえばジャズ評論家ナット・ヘントフが小説の中で「黒人にだって音痴はいるさ」と書いていたのを思い出しますね。

 でもちょっと不安になるのは、これほどの日本文学を深く研究されているパルヴァース氏においても、本当に安吾の意図を理解していただいているんだろうか、と言うような記述が見受けられること。特に、hirakuさんも鋭く問題提起されているの問題は自分も凄く引っかかりました。
 簡単に言うと、主役の美女の着付けかたなのですが

そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れながされて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されていくのでした

と言う記述があり、それを以ってパルヴァース氏は「どうやら帯も満足に結べないようだ」と結論付けているのです。殺人強盗を何とも思わない山賊に山を捨てさせた程の傾城の美女がその程度の女であれば主人公として成り立たないだろうと思うのは、果たして日本人独特の美意識なのでしょうか?

そうだとしたら、安吾が意図したこの女の着付け方には、能の守・破・離の意識があったのかもしれません。観阿弥・世阿弥により打ち立てられたこの思想は、たしかに無意識のうちに芸事や武術などの習得に際して日本人に植えつけられているように思います。簡単におさらいしますと、

: 師から教えを受けた通りの事を忠実に守り、反復修練して正確に身につけるまでの段階。
: 自らの意志によって師の教えを意識的に崩し、自分にあったものを築き上げてゆく段階。
: そのようなこだわりから抜けだし自由に思うままに至芸の境地に至る段階

と言うことになろうかと思います。繰り返し申しますが、安吾がこの絶世の美女を「」もできないような低俗な女として描いたとはとても思えません。

自分の自由気ままに帯を何枚も結んでいけばそれが恐ろしいまでの美を放つようになる

という、の段階を会得している女として描いていると考える方が、前後の筋から考えて違和感が無いと思います。それが日本独特の美であり、他国の方には理解し難いというのならば、やはり文化には壁がある、と言うことになってしまいますがーー。

 まあ、そんな余計なことを考えさせるほど知的刺激に溢れている、ということには違いありませんし、何より安吾の傑作を嘗め尽くすように読める、という贅沢を味わえる本です。この方は銀河鉄道の夜も英訳しておられるらしいので、次はそれを読んでみたいと思っています。

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2006/01/04

ふるさとの本棚

bookshelf-2 昨日の記事にも書きましたが、実家の本棚から詩集関係を探す用事があり、ついでに文庫本棚を写真に撮ってきました。今は昭和30年代を振り返るのが流行りだそうですが、3-40年代を振り返る企画ということで便乗させてもらいませう。

 まずはSF関係ですね。創元推理文庫シリーズです。今もあまり変わりないのかもしれませんが、1970年代のSF&ミステリ関係の文庫本といえば創元か早川しかありませんでした。

bookshelf-1 引き続きSFと、左は純文学がちょこっと。SFは早川ですね。早川の方が装丁が綺麗だったような記憶が。
 もちろん日本SFもどっさりありました、筒井康隆、光瀬龍、小松左京先生方のはその頃出てたものは殆ど買っていたと思います。
 純文学に関してはドイツ関係が並んでいますねえ。それほど読んだ記憶が無かったんですけど。いつかはトーマス・マンと思ってたんですけどそれはかなわなかったようです(苦笑

bookshelf-3 純文学関係の続き。ドストエフスキがそろってますね。だから写真も暗いのか?(^_^;)。横にちょこっとポー全集が見えてます。文庫本で豪華な装丁で全集を出すというのはその頃のちょっとした流行でした。この全集は2冊だったと思いますが、とても美しい本だったので感激した覚えがあります。後年アラン・パーソンズ・プロジェクトが音楽化したときに読み返しました。

bookshelf-4 流行と言えば、名作漫画を文庫本で出すことが大流行した時期がありました。白土三平先生の作品は出れば買う状態でした(^_^;)。もちろんこの横には「カムイ伝」があります。そういえば「白土三平漫画の魅力」と言う本もありました。どっぷりとはまってたんですね~

我々は遠くから来たーーそして遠くへ行くのだ(影丸)

 水木先生の「墓場の鬼太郎」があったのには自分でもビックリしてしまいました。貸し本屋時代の作品を文庫本化したんですねえ。確かハンセン氏病に関する記述があった様な気がしますが、中身は確認しませんでした。もしあれば今ではとても出版できないでしょう。
 他の棚には石ノ森先生の「サイボーグ009」やら、手塚先生の「火の鳥」やら、色々入ってました。

panflets おまけで映画のパンフレットもありました。nemotaさんのベスト1「フィールド・オブ・ドリームス」もありました。故淀川長治先生の解説付き!
 ただ、ここにある多くの作品は自分が実家を離れてからの作品なので、帰省中に観たのか、あるいは引越しの時に実家に預けたのか、のどちらかだとおもいます。

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2005/12/03

意味がなければスイングはない

 NYタイムズの今年の10冊に「海辺のカフカ」が選ばれた村上春樹氏ですが、彼にとってこれが初めての音楽に関するエッセイ集だそうです。
 彼の音楽に関する該博な知識は、著書のあちこちからこぼれんばかりに見て取ることができますから、これが初めてというのはちょっと意外です。といっても以前記事に書きましたように、季刊ステレオサウンドの連載記事をまとめたものです。こうして本になってから考えてみると、春樹氏に音楽エッセイを書いてもらおうという試み、コロンブスの卵的発想ですね、小野寺編集長、グッジョーブ
意味がなければスイングはない
意味がなければスイングはない

題名はもちろんエリントン・ナンバー

It Do'nt Mean A Thing, If It Ain'tGot That Swing

のもじりです。個人的には連載時の「音楽のある場所」という題名の方がしっくり来る気がしますが、村上春樹氏にとっては十分考え抜いた題名だそうです。その辺はあとがきに書いてありますのでご一読ください。
 加筆があると聞いていたのですが、残念ながら連載された下記十章以外の新ネタはありませんでした。あとがきによると、加筆というよりは連載時の制約でカットしなければならなかった部分を掲載できた、という要素の方が多かったようです。

第1回 シダー・ウォルトン 強靱な文体を持ったマイナー・ポエト
第2回 ブライアン・ウィルソン 南カリフォルニア神話の喪失と再生
第3回 シューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」D850 ソフトな混沌の今日性
第4回 スタン・ゲッツの闇の時代 1953-54
第5回 ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ
第6回 ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト
第7回 ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか?
第8回 スガシカオの柔らかなカオス
第9回 日曜日の朝のフランシス・プーランク
最終回  国民詩人としてのウディー・ガスリー

 連載中にも文章のうまさは際立っていましたが、まあ失礼ながらステサンの他のライターの方々とはメジャーの一線級と日本プロ野球の一軍半くらいのレベルの差は歴然としてありますから、その分を差し引いては考えないといけないかとは思っていました。
 でも今回彼の文章だけを一通り通して読んでみてもやはりうまい。翻訳夜話などにも書いておられますが、彼は一つ一つの文章のリズム、そして全体的な段落ごとのリズムというのを非常に大切にしています。具体的なところで言うと、句読点の使い方がとてもうまい。例えば、ブライアン・ウィルソンの章の最初の方にハワイのステージの情景が描かれているのですが、

さすらう霧のような細かい雨だ。人々は顔を上げ、目をこらし、照明の中を横切る無数の細い線を認め、それを雨だとかろうじて認識する。ワイキキの小雨だから、長くは続くまい。

句点、読点によって一息で読めそうなセンテンスを作り出し、それをリズミカルに積み重ねて読者の頭の中に鮮やかなイメージを植えつけいていく。NYタイムズが

マジックのようだ

と評した小節の土台がこのようなところにあるのではないかと思います。

 もちろん内容も素晴らしいものです。色々なジャンルの音楽に対する深い造詣、対象とする音楽の本質をガッと鷲づかみにして抉り出す手腕、そして何より実は弱くて脆い人間であるアーチストへの優しいまなざし、どこをとっても村上春樹流の愛情が溢れているようです。たとえばブルース・スプリングスティーンの章の最後の方。

今でもスプリングスティーンの音楽を聴くたびに、春の日差しに照らされたアズベリーパークの光景をふと思い出す。僕が1970年前後、東京でなんとか生き残るための努力を続けていた頃、ブルース・スプリングスティーンもやはり同じように、このうらぶれたアズベリーパークの町で悪戦苦闘していたのだ。それから三十年以上の歳月を経て、我々はそれぞれにずいぶん遠い場所まで歩を運んできた。うまくいったこともあるし、あまりうまくいかなかったこともあった。そしてこれからも生き残るために、それぞれの場所で、それぞれの闘いを続けていかなければならないはずだ。

 一見平易な文章ですが、これだけの勁い意志をフィッツジェラルドばりの美文の中に嫌味無く收める、というのは凡人にはなかなかできないことです。音楽に関する評論を仕事にはしたくない、と氏はおっしゃってますが、ステサンのレビューなんかを担当してもらえたらどんなに素晴らしいでしょうね。

 もちろん、こんなに回りくどい文章でなくてももっと直截的に誉めればいいじゃないか、という感想があることも知っています。私が反論するより、ゼルキンとルビンシュタインの章の中にある此の文章を記しておきましょう。

音楽として純粋に優れていればあとのことはどうでもよろしい、という人があるかもしれないし、それはもちろん正論なのだが、僕には ー 小説家だからということもあるかもしれないけど ー 音楽を媒介にして、その周縁にある人々の生き方や感情をより密接に知りたいという思いがあるし、こういう本を読んで音楽を聴くと、何かひとつ得をしたような愉しい気持ちになれるのだ。そんな音楽に聴き方があってもいいだろう。

もちろんここでいう本というのは、二人のピアニストの伝記なのですが、そのままこのエッセイの本質となっているように感じました。

 というわけで、村上氏の余裕の筆力を見せ付けられると、風邪も治りきらず頭の回転も鈍いままの私としては、こんな私的なブログとは言えど文章を紡ぐ手が思わず止まってしまいます。これだけ書くのに1週間近くかかってしまいました。まあ、一言音楽が好きな人なら買って損はないですよ、と言えば済むことなのですけどね。

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2005/10/16

スフィンクスのなぞなぞ

Next, tell me what's always the last thing to mend
The middle of middle and the end of end?

二つ目のヒント。だれでもはじめに持っていて、
途中にまだまだ持っていて、なんだのさいごはなんだ?

ハリー・ポッターと炎のゴブレット 上下巻2冊セット (4)

は: アレレご主人様、まだハリポタネタで引っ張るのでございますか?Keiko様やキングあおぽんさまをはじめとする御常連の方々のためにも新しいネタを探されないとーーー
ゆ: 最近コメントで君が必要だとおっしゃってくださった方にヨイショしてるね、はむちぃ君。
は: ーーー(*^_^*)
ゆ: ま、いいか、はむちぃ、このなぞなぞ解ける?ハリー・ポッターがスフィンクスからかけられたなぞなぞの一部なんだけど。
は: はむちぃめまだ英語はチイ山先生に習っている最中でまだ十分理解できませんが、なんだか訳が間違っているような気がいたします。

ゆ: そこなんだよ、はむちぃ君(大声)

は: うわっ、びっくりした、何事でございます?
ゆ: シドニィ・シェルダンシリーズではないが、実はこれは超意訳なのだ。すごすぎて思わず笑ってしまったぞ。
は: 松岡佑子様の訳に何か問題でもーーー
ゆ: 今までの彼女の訳は概ね妥当だったし、ああなるほどと

持った湯呑みをバッタと落とし
小膝叩いてにっこり笑い!

は: ご主人様、それは浜村淳様の30年の歴史を誇るギャグでございます(ーー;)。
ゆ: 失礼(^_^;)、まあ納得できる訳だったんだけどこれは訳すること自体が無理なんだ。だから作者が苦労してこの文章をひねり出したしたのは理解できないことはないんだけど、原文で文章中に謎の解き方を提示していないものだから、日本語訳でも答えの説明が無いんだな。だから殆どの人が読み飛ばしてしまうと思うんだよ。これはちょっと不親切だと思うんだよね。
は: なるほど。で、お答えを教えていただけませんか?
ゆ: 実は問題は三問あってその答えを継げると一つの「キスしたくない生き物」の名前になるんだ。一問目はSPY、三問目はER。これでもう二問目の答えはわかったも同然でしょう。
は: はむちぃめ、英語がまだよくわかりませんものでーー
ゆ: 別に文章の意味をとる必要は無いんだよ、原文で言うとmendの最後、middleの真ん中、endの終わりを見ればいいんだ。
は: はあはあなるほど、日本語訳ですとだれまだまだなんだの三語から見つければよいものでございますね。そういえばこんな本がございました。
蜘蛛女のキス
ゆ: おっ、はむちぃうまくまとめたね、私はhello nicoさんのブログを見ていて思いついたポリスの「De Do Do Do, De Da Da Da」でオチをつけようと思っていたのだが(^_^;)
 ではまたお会いしましょう、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
は: (ーー;)ご主人様それは故淀川長治大先生の(以下略)

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2005/10/15

Harry Potter and the Goblet of Fire

Harry Potter and the Goblet of Fire (UK) (Paper) (4)
 7月15日の記事で11月の映画公開までに読まねば、と書いていたHarry Potter and the Goblet of Fire (UK) (Paper) (4)をようやく読了しました。と言ってもしんどいとかいう感じはなく、なかなか充実した楽しい時間を過ごせました。

 いまや14歳となった魔法使いの孤児ハリーがマグル(非魔法使いの人間)の親戚を離れてホグワーツ魔法魔術学校に戻れる日まで、残すところ2週間となっていた。そんなある晩、ハリーは不吉な夢を見て、稲妻形の傷が激しく痛みだす。彼は不安になり、人目を忍んで生きている自分の名づけ親、シリウス・ブラックに連絡を取る。幸い、今シーズン初のスポーツイベント、クィディッチ・ワールドカップを観戦できる喜びで、ハリーは復活をたくらむ悪の権化ヴォルデモード卿とその邪悪な手下、デス・イーターたちが殺しをたくらんでいることをしばらく忘れることができた。そしていよいよ4年目の新学期が始まる。その最初の祝宴の席でダンブルドア校長から驚くべきイベントが発表される。なんと今年はクィディッチ・マッチが行われないというのだ。。だがその代わりに、ホグワーツ校とほかの2つの魔術学校── おしゃれなボーバトンズ校と冷淡なダームストラング校── とで、3魔法使いトーナメントが開催されるという。各学校の代表に選ばれた者が3つの究極の試練に立ち向かうことになっている。ハリーは年齢制限があり、挑戦できるはずもないのだが意外なことにーーー。(AMAZON解説より、少し改変)

 Takiさんから、量も更に多くなるし、今度はフランス訛り、ブルガリア訛りの英語も出てくるので大変ですよ、と忠告を受けていたのですが、この異国語訛りは悩ましいと言うよりはむしろ楽しかったです。
 ただ今回のローリングさんの文章には永遠のライバル国フランスに対する底意地の悪さが覗いたり、遥か東方の田舎である東欧に対する蔑視とまではいかなくともほのかなさげすみが垣間見えたりと、失礼ながら高慢さを感じるように思いました。七つの海を制覇した英国人としてのプライドというのは一人一人の英国人に根強く宿っているんだなあと思いましたね。

 ただ、確かに分量は大変でした。原則的には一章読了するごとに「ハリー・ポッター」Vol.4が英語で楽しく読める本ハリー・ポッターと炎のゴブレット 上下巻2冊セット (4)をチェックするようにして進めていきました。でもやはりプロットの面白さからか、あまりしんどいとは思いませんでした。そして、終盤に入るとあまりのスリリングな展開に我を忘れて没頭してしまい、上記2冊の参考書をすっ飛ばして最後まで読んでしまいました。
 まだ映画が公開されてないのでネタバレは止めておきますが、ついにこの巻で犠牲者が出てしまいます。その悲痛さは本当に胸を締め付けられ、涙で読み進めない場面もいくつかありました。今度の映画にはハンカチが要りそうですよ、みなさん。実は昨日の読了後「チャーリーズ・エンジェル」を不覚にも見てしまったのですが、バンバン人が死んでいってるのに最後にけらけら笑ってる3人組の美女を見ると、この物語とのあまりの落差にちょっとむかつきましたね(-_-;)

 そして、ホグワーツ校に潜む真犯人は誰か、の謎解きも脱帽です。

あの薬をプロットに組み込んだら何でもありジャン、反則だよ

という批判も聞こえてきそうですが、そこは見事なストーリー展開に免じて多めに見ましょう。
 
 ところで、今までの作品は第一章が必ず魔法使い嫌いの育て親ダーズリー家の描写から始まっていましたが、本作品において初めてその原則が破られます。前作「Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (UK) (Paper) (3)」に於いて最後にハリーが許した為に逃亡した悪役が第一章においていきなり登場するプロット展開から見て、前作と本作は明らかに密接にリンクしており、一つの作品ととらえるべきかと思います。そうすると個人的には古今の傑作ミステリー群に決してひけをとらない素晴らしい大作なのではないかと思います。

 さて、そうなると気になるのが映画。今までの作品も3時間前後かかっていたし、これだけ長くなると「風とともに去りぬ」や「アラビアのロレンス」みたいにIntermissionが要るんじゃないでしょうかね。どこを端折るかに監督脚本の腕が問われるところですが、スタッフ・キャスティング情報を見るとまた監督が替わったみたいです。3作目の雰囲気が好きだったので残念といえば残念です。マイク・ニューウェルという人は「フォー・ウェディング」くらいしか知りませんが、まあクリス・コロンバスが製作で残っているし、ポール・ラドクリフエマ・ワトソン以下キャストもほぼ同じメンバーなのでそう大きな変化はないと思います。

clemens_pansy 新キャラではハリー憧れのチョウ・チャン(ケイティ・レオン)もさることながらやっぱり蠱惑系魔女族ヴィーラの血をひくフランス魔女である絶世の美女フルール・デラクールを誰がやるのかに注目が集まると思います。デビューしたてのころのドミニク・サンダとかイザベル・アジャーニくらいの人材を持ってこないとね。
 Clemence Poesyという女優さんらしいですが、う~ん写真で見る限りは失礼ながらチョト役不足(^_^;)?もっといい写真なかったのかなあ。


 まあ映画は楽しみにおいとくとして、「Harry Potter and the Order of the Phoenix (UK) (Paper) (5)」をどうするか、今悩んでおります。ますます暗くなっていくという話だし分量もますます増えてるし。
 まあ、いくつか平行して読んでる本もありますし、久しぶりに違う英米文学も読みたいのでとりあえずハリポタは一休みします。

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2005/09/30

虎よ、虎よ!

dai3shinseimaru
 というわけで昨日のノマドつながりでこの作品を阪神タイガース優勝の翌日に紹介します。
虎よ、虎よ!

ジョウント効果と呼ばれるテレポーテーションの開発によって、世界は大きく変貌した。一瞬のうちに空間を跳び、人々はどこへでも、自由に行けるようになったのである。しかしそれと同時に、このジョウント効果がもたらしたもの、それは富と窃盗、収奪と劫略、怖るべき惑星間戦争でもあった。この物情騒然たる25世紀を背景として顔に異様な虎の刺青をされた野生の男ガリヴァー・フォイルの、無限の時空をまたにかけた絢爛たる復讐の物語がここにはじまる……。

 先日からMAO.Kさんのブログで名作SFが紹介されていましたが、これもSF黎明期の傑作です。作者はアルフレッド・ベスターですが、題名は英国の詩人ウィリアム・ブレイクの詩から引用されています。ブレイクの詩はトマス・ハリスのハンニバル・レクター博士シリーズ「レッド・ドラゴン」でも引用されていますし人気が高いですね。
 
  さて、ノマドの説明をしましょう。本作は壮大なというか、もう狂気をはらんだといってもいいくらいの復讐譚です。主人公は、外惑星連合の攻撃により壊滅的な打撃を受けた宇宙船NOMAD号の中でただ一人生き残り、百七十余日暗黒の中で狂気寸前となって救助を待ちます。ある時<ヴォーグ号>という宇宙船がNOMAD号の残骸と、その中の生存者の救難信号を認識しながらも通り過ぎてしまいます。主人公は何とか生き長らえて、生涯をかけてこの船に復讐をする決心をする訳です。そして復讐を誓った主人公が額に彫りこんだ入れ墨がNOMAD♂でした。Nomadは漂流民という意味ですが、入れ墨にはNo Madすなわちどんな状況に陥ろうと正気を保つぞという強い意志がこめられていました。

 まあ、そこまでやるかというプロットはともかく、随所に出てくるSF的小道具は発表された1956年という年代を考えると非常に斬新だったと思います。特にジョウント効果というテレポーテーションの概念は後世に多大な影響を与えました。自分の覚えているだけでも筒井康隆の小説に使われていたり、吾妻ひでおの漫画でギャグにされていたりしてました。

 さて、冒頭の写真は根室沖で当て逃げされ沈没した第3新生丸です。宇宙船ノマド号とだぶります。許しがたい当て逃げをした船はガリバー・フォイル並みの復讐を受けるぞ(怒。

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2005/09/28

最後の物たちの国で

 旅行するときには英語なら薄いペイパーバック、日本語なら以前読んで再読したいと思ったものを持っていくことにしています。まあいずれにせよ、日常性からかけ離れたもの、クラクラっと眩暈を覚えさせてくれるようなものを意識的に選んでいます。今回の石垣旅行には、hiraku_austerさんのブログで見て、あ、また読みたいなあと思ったこの作品を持っていきました。
最後の物たちの国で
最後の物たちの国で

人々が住む場所を失い、食物を求めて街をさまよう国、盗みや殺人がもはや犯罪ですらなくなった国、死以外にそこから逃れるすべのない国。アンナが行方不明の兄を捜して乗りこんだのは、そんな悪夢のような国だった。極限状況における愛と死を描く二十世紀の寓話。(AMAZON解説より)

 現代米文学を代表する作家の一人ポール・オースターの作品です。彼の出世作となったニューヨーク三部作と、彼の代表的長編小説のひとつである「ムーン・パレス」の間の時期である1987年に書かれました。前者のポストモダニズムの残滓と後者のストーリーテリングの萌芽が混在した過渡期的小説と言えるかもしれません。オースターはこの作品をとても愛しているようで、アメリカでは埋もれてしまっているのを殘念がっているそうですが、日本のオースターファンにはこの作品の愛好者が多いようです。柴田元幸氏の名訳も一役買っているのでしょう。その柴田氏が述べられているように、全編を覆う絶望の暗さの中に不思議な「希望」の光が射しており、本当に不思議な魅力をたたえた作品です。

 主人公が語るようにこの小説の舞台となる国には確かなものなど何一つありません。それと同じようにこの小説の設定自体何一つ具体的な地名はなく、場所、時代ともに曖昧模糊としています。確かなのはユダヤ人であるアンナ・ブルームという主人公が兄ウィリアムを探してこの国に来た、と言うことだけ。このあたりのファジィさを欧米の人より日本人が好む、ということもあるのかもしれませんね。

 いかにもポストモダン的だなと思うのはその曖昧さを外的な因子が補強することにより、この小説の舞台がある程度規定されている事。すなわち
1: ニューヨーク三部作の一篇「シティ・オブ・グラス」で最後に失踪したクインと言う人物のパスポートがこの国に落ちていたこと(本書p45)
2: アンナ・ブルームが書き記したノートの送り先が「ムーン・パレス」に出てくるジンマーという人物であること。(文庫版p133)
 この両書の舞台はともにニューヨーク、2は「人類が初めて月を歩いた夏」が舞台ですから、アンナ・ブルームは1969年の夏ニューヨークから船に乗り10日間かけてその国にたどり着いたということになります。

 オースターファンであればこのあたりの重層的な構造や彼独特の言葉遊びなども楽しむことができますが、彼の作品を読んだ事が無い方でも虚無の渦の中にずるずると引き込まれていくような眩暈感は味わえると思います。日常から束の間でもスリップアウトしたいときにはこの書を手にとってみられてはいかがでしょうか。最後にhiraku_austerさんの名文を引用して終わることとしましょう。

「最後の物たち」とは具体的に何を指しているのだろう、と考えるとわからなくなってくる。もちろんあらゆる物が消え去ってゆく世界であるから、目の前にある物は無に変わる寸前の最後の物である、という言葉通りの取り方ができる。(中略)さらには記憶が皆と共有できなくなったとき、言葉も無意味になってゆくから、言葉こそ最後の物である、とも。アンナはまさにその言葉をもってノートに物語を書きつづっており、アンナにとってはこのノートこそが最後の物かも知れない。そしてノートの中でアンナは願うのである。このノートがあなたにとって私を思い出すよすがとなる最後の物となって欲しい、と。オースターの物語世界にしばしば見受けられる、重層かつ重厚な構造である。

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2005/09/12

In The Shadow Of No Towers

 昨日は9.11でした。それにあわせてアート・シュピーゲルマン氏の本が出版されました。
消えたタワーの影のなかで
消えたタワーの影のなかで

 氏は漫画家で、父親から聞いた話を元にアウシュビッツの悲劇を漫画化した「マウス」でピュリッツァー賞をとりました。氏のことを知ったのは柴田元幸氏のナイン・インタビューズという本でした。CD付属で彼の肉声を聞くことも出来ます。
 もちろん正義感と批判精神にあふれた骨太のかたではありますが、現在の政治を単純に鸚鵡返しに批判するような手法はとらず、自分の中で十分醗酵させてから歴史的評価に耐えうると判断した上で発表するという慎重な姿勢もちゃんと持っておられます。そのような方が自分の居住区のすぐ近くで起きたあの9.11をどう表現するのか、2年目にしてようやく出版されたこの本に大変興味があり買って見ました。

 題名からしてシニカルですね。「存在しない塔の影」に今なお彼が如何におびえているか。ブッシュ政権とイスラムの両方から攻撃を受けているようだ、そうです。絵柄が如何にもアメリカ風で日本アニメの精緻な筆使いに慣れた目から見るとやや見にくい面はありますが、ユダヤ人である彼の思索の深さを読み取るのはそれほど難しくはありません。もちろんアメリカンコミックに造詣の深い小野耕世氏の素晴らしい訳があってのことですが。
 

ナイン・インタビューズ
ナイン・インタビューズ

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2005/07/30

キースとロンのバッド・チューニング

ロカ
ロカ

 昨日の続きになりますが、中島らもの絶筆「ルカ」からの話題です。この作品もらもさんらしく、麻薬、酒、食べ物、マスコミ、そして音楽等の薀蓄のオン・パレードとなっています。
 麻薬や酒の薀蓄が既に過去の作品で頻出していること、文章に彼の実生活の影響がでているような乱れがあること等、本の帯で

間違いなく彼の代表作である

と謳っているのは明らかにおかしい、とは思いますが、さすがロッカーだっただけのことはあり、こと音楽に関する話題だけはやはり楽しいです。楽譜も2箇所で出てきますし、題名のルカからして、主人公の爺さん愛用のダブルネックギターの愛称なのです。

 そのような多岐にわたる音楽、特にロックの話題の一つにザ・ローリング・ストーンズのギター・チューニングの話題があったのでご紹介したいと思います。
 ストーンズのリード・ギター、キース・リチャーズは知る人ぞ知るヘロイン中毒でしたし、リズム・ギターのロン・ウッドもいかにも不良上がり。そんな二人でも本番前は本当に念入りなチューニングをするそうです。それも、本チャン、スペアの2本のエレキギターの他に、オープンDチューニング一本、オープンGチューニング一本、そしてアコギと最低でも一人5本は行うという大変な作業。
 そしてそれからが凄いのですが、そのあと二人で完全に合わせた後、なんと両手でギターを高々と持ち上げ、それを降り落として尾部を床にゴーンとぶつけてわざとチューニングを狂わせるのだそうです。キースはこう言うそうです。

ロックなんだ。多少狂ったバッド・チューニング。それがロックの音なんだ。

 いやあ、カッコイイですねえ。でも、彼らにはChuch Mageeという素晴らしいギター・テクニシャンがついていたはず。2年前の来日コンサートの直前に急逝されたためメンバーが大変な衝撃を受けた、というのは有名なエピソードでした。コンサートのパンフレットにわざわざ追悼の写真が載っていてこんなコメントがあります。

This man was indeed the salt of the earth

らもさんの話のほうがずっとかっこいいけど、おそらく昔の話なんじゃないかな。

このほかにも「カラミア・チューニング」というユニークなギター・チューニング方法の紹介があったり、音樂(特にロック)ファンには結構楽しめます。らもさんのヨタを笑って許せる方なら、読んでみてください。

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2005/07/29

中島らも一周忌

酔っ払って、階段から落ちて死ぬなんて…親父にとって『死ぬにはいい日』だったにちがいありません。もう新しい言葉は聞えませんが、中島らも的に言えば糞まみれの人生にも、ガラスの破片が突き立ったように、キラキラ光る奇麗な日があるということなのでしょう。(2004年7月30日付わかぎゑふさんのコメントより抜粋)

 去年の7月26日に中島らもはその生涯を閉じた。52才という若さであったが、麻薬や酒で身体はもうボロボロであったし、酔いつぶれて階段から落ちて救いようの無い脳挫傷を生じてしまってはもうどうしようもなかった。わかぎゑふさんの追悼文を読んではじめて滂沱のように涙がでて止まらなくなったのを昨日のように思い出す。もうHPを覗いてもその追悼文を見ることはできないが、私のPCには残してある。全文を掲載したいところだが、著作権の問題もあるのでその一部だけを抜粋させていただいた。

合掌。

ロカ
ロカ

 ロカは未完の遺作として発表された。長い間読む気がしなかったが一周忌の日にようやく手にとってみた。ぷっつりと話が途切れているのがおかしくもあり哀しくもある。

 本当にどうしようもない人だな。続きを読みたいよ。

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2005/07/16

コックニー訛り

 といっても残念ながら、スティーブ・ハーリーの話ではありません。昨日の続きでハリー・ポッターの話です。

 Harry Potter and the Prisoner of Azkaban (UK) (Paper) (3)は個人的にはたいそう気に入ったので読了した後も所々読み返しています。大分慣れてきたクイーンズ・イングリッシュですが、今回頭を悩ませてくれたのがCockney's Accentでした。コックニーとはロンドンの下町East Endのあたりでここの訛りをコックニー訛りと言います。
 今回本作でしゃべっているのはKnight Busの車掌Stan Shunpikeと運転手Ernie Prangの二人。まあ、一読しただけでは雰囲気程度しか理解できません(T_T)。でも何回か読んでいると以下のような特徴がおぼろげながらつかめてきました。

1:語頭、語尾を発音しない。
'alf=half, an'=and

2:2語以上をつなげてはしょる
What is = Woss, What did you = 'Choo, Didn't you = Dincha

3:thをf、gをk等に置き換える
nothing = nuffink、thirteen = ferteen, toothbrush = toofbrush

 その他にも代名詞を省略したり、助詞の使い方が無茶苦茶だったり、所謂lazyな言葉使いなんだろうと思います。コックニーには有名なRhyming slangというこれまた頭を悩ませる符丁があるのですが、たぶんこれは今回は出ていないと思います。出てきたらもう、訳分からなくなりますヨ(>_<)。

 そして最後まで苦しんだのがこれ

You outta your tree?

ハリーが禁句であるYou-Know-Whoの本名をしゃべってしまい、ぶったまげた時のスタンの台詞です。まあ、これはコックニー訛りと言うよりイギリス風の慣用句を知らなかったせいなんですが。だめもとで電子辞書でtreeの慣用句を調べてみたらあっさり解決してしまいました。

out of one's tree :(英俗) 気の狂った

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2005/07/15

ハリー・ポッターとアズカバンの囚人

 世間では最新作Harry Potter and the Half-Blood Prince (Harry Potter 6) (US)の話題でもちきりのようです。私の場合、3周くらい周回遅れで追いかけているのでまだこの作品は遥か彼方です(^_^;)。

 随分古い話になって恐縮ですが、去年の9月に前作「不死鳥の騎士団」を家内が購入したという記事を書きました。実はその時の写真に洋書の第二作目Harry Potter and the Chamber of Secrets (UK) (Paper) (2)も写っています。家内や子供が日本版、私がそのあとからゆっくりと洋書で追いかけてるというわけです。ああ、Takiさんのような英語力がほしい!というわけでそんな速く読めるはずも無く、おまけに暇なときや旅行中しか読まないもので、結局読了に半年位かかりました。でもせっかくここまできたんだからと、その勢いで三作目のHarry Potter and the Prisoner of Azkaban (UK) (Paper) (3)も購入して読んでいたのですが、こちらも先日やっと読了。こちらは結構スリリングで引き込まれ、(自分の感覚では)あっという間に読んでしまいました。その記念に映画の方も再度鑑賞することにしました。

ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 特別版
ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 特別版

メガヒット・ファンタジーの第3作は、監督アルフォンソ・キュアロンに交代し、よりダークでミステリアスな物語と映像が前面に押し出された。ホグワーツ魔法魔術学校の3年目を迎えたハリーだが、彼の両親の死に関わっているという囚人シリウス・ブラックが、アズカバンの監獄を脱獄。ハリーに近づこうとしていると噂が立ち、ホグワーツの周囲を、アズカバンの看守である恐ろしい吸魂鬼が監視する。(AMAZON解説より)

 はじめはいかにも子供向けの話だったこのシリーズですが、段々とシリアスになってきて英国特有の陰翳を持つ大人の鑑賞にも耐え得る文学作品へと変わってきている、というのは世間一般の評価の受売りですが、この作品がターニングポイントになっているように思います。今回はYou-Know-Whoというこのファンタジー最大の悪役は登場せず、その代わりにシリウス・ブラックルーピン教授という非常に魅力的なキャラクターが登場します。

 シリウスは悪玉として登場しますがおそらく善玉なんじゃないか、という期待、ルーピン教授は善玉として登場しますが何か秘密を隠していてシリウスに味方してるんじゃないかという不安、それをうまくストーリー展開に織り込んでいます。両名の描写もとても緻密で、ファンタジーの域を超えて人間臭い(実は矛盾してる表現ですが)ので、公開当時この映画を見たときは少し面食らった覚えがあります。しかし原作を読んでからもう一度見てみると、原作者ローリングさんの人物造形はこの二人において飛躍的に進歩したと感じます。

 逆に言うと、この二人の絡む部分と前作までと同様のファンタジーの部分にやや乖離がある点が少し辛いところでしょうか。映像的にも賛否両論あったようですが、私は楽しめました。思い切ってホグワーツ学校周辺の描写を変更していますが、成功していると思います。バックビークという想像上の生物やナイトバスの造形とCGも見事でした。この監督はこのシリーズ初めてとの事ですが、なかなかのものです。

 ボリュームの増えた原作を無理やり142分に凝縮している為駆け足になっている、というところをAMAZONでも批評していましたが、原作を読んでいる人がこれは映像化してほしいだろうというポイントを絞って作りこんで行ったらこうなった、ということでしょう。確かに物足らない部分や説明不足の面もありますが、そういう意味ではこのシリーズは原作を知っていることを前提にして作られていると言えるでしょう。

 というわけでーー次作が映画化されるまでにやっぱりHarry Potter and the Goblet of Fire (UK) (Paper) (4)も読んどかねばなるまいか。

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2005/06/17

「音楽のある場所」連載終了

 村上春樹氏の季刊ステレオサウンドでの連載「音楽のある場所」の連載が今季号(No.155)で終了となりました。一回につき一人か二人の音楽家について深く考察し、その分野はクラシック、ジャズ、ポップス、更にはJ-POP(スガシカオ)にまで及んでいて、とても楽しみにしていました。ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンを扱った回の文章は、涙なくして読めない名文だったと思います。

 2年半に渡って氏の音楽的薀蓄の限りを尽くした文章を楽しむことができたのは幸せでしたが、もう終わっちゃうのかと思うと残念でもあります。勝手な想像ですが、そろそろ次回作執筆モードに入ってるからなんでしょうかね。そうであれば嬉しいですが。

 この連載は、加筆して今秋文藝春秋社より単行本化されるそうですので楽しみに待つことにしましょう。
 最後に連載の題名を記しておきますので早く読みたい!という方はバックナンバーを取り寄せてください。第1回がNo146号です

第1回 シダー・ウォルトン 強靱な文体を持ったマイナー・ポエト
第2回 ブライアン・ウィルソン 南カリフォルニア神話の喪失と再生
第3回 シューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」D850 ソフトな混沌の今日性
第4回 スタン・ゲッツの闇の時代 1953-54
第5回 ブルース・スプリングスティーンと彼のアメリカ
第6回 ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト
第7回 ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか?
第8回 スガシカオの柔らかなカオス
第9回 日曜日の朝のフランシス・プーランク
最終回  国民詩人としてのウディー・ガスリー
 

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2005/04/23

無季俳句

 現在吉田研究所さんが精力的にプログレ無季俳句を発表しておられ、大変面白いです。私も一句ひねろうと思ったのですが、残念ながら力足らずカキコできませんでした。
 さて、この無季俳句が第二次世界大戦中「危険思想」として睨まれていたなんて皆さん想像できますか。でも事実だったんです。無季俳句、新興俳句を推進しようとした西東三鬼平畑静塔等が検挙されたという事実もあります。我田引水ながら先日ご紹介した石田波郷にも若干の接点があったといわれています。

兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り 西東三鬼

 では無季俳句と川柳の違いは何か?といわれるとこれが難しい。面白いのが川柳、面白くないのが無季俳句ーーなら吉田研究所さんのは川柳か?(^_^;)ということになってしまいますよね。偶然にも先日、毎日新聞夕刊編集長の近藤勝重さんがラジオで私見を述べておられました。無季とは限らないのですが、

詠んでみて「それがどうした」と言われてもいいのが俳句、言われたらダメなのが川柳

だそうです。実は小泉首相が議員の奥様の会で一句披露した川柳を揶揄してのことだったんですけどね。

家事育児 冠婚葬祭 寝る間なし 小泉純一郎

それがどうした!というわけ。なるほどなるほど。おもねるところのある句というのは馬鹿にされてもしかたがないですね。それに比べると上述の西東三鬼の句はそれがどうした!なんていう野次には動じそうもない、特高ににらまれても不思議のないほどの凛とした態度が見て取れます。

心して受け止めるべし 無季俳句 ゆうけい ーーーお粗末。

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2005/04/19

命あまさずー小説石田波郷

 先日読みかけの本がまだ2,3冊あると書いたのですが、そのうちの一冊がこれです。最近少し下火ですが、西武、コクドの堤義明氏が新聞の一面をにぎわしていた頃に、ふと思い出して買いました。
命あまさず―小説石田波郷 辻井喬
命あまさず―小説石田波郷

 何故かというと、この本の著者辻井喬という方、実は堤清次氏で西武流通グループの経営者なのです。義明氏とは異母兄弟ですが、文人経営者との誉れ高い方で当然?ながら義明氏とは以前から常に距離を置いておられるようです。
 でもって、この辻井喬氏は俳句にも造詣が深いそうで、私の好きな俳人石田波郷を題材にした小説を書いておられることは以前から知っていたのですが、これを機会に読んでみようかと思ったわけです。

 ところがこれが意外や意外難物だったのです。文章は全く平易で、失礼ながら私の好きなほかの小説家に比べると文体は平凡です。また、短編小説の積み重ねといった体を取っており、一章読むのに半時間くらいあれば十分。なのに何故進まないか?

 波郷の俳句を引用していないからなのです(涙。波郷が

俳句は文学ではない

と主張したのに呼応してか、辻井氏も

小説というジャンルの独立性を明確にしておきたかった

そうです(-_-;)。おいおい、読む方の都合も考えてくださいよ、おそらく無理やり買わされたであろうお宅の社員なんかあまりに退屈で泣いてますよ。俳句の一つも入れとけば、波郷のファンが少しでも増えたかもしれないのに。

 では、俳句抜きで波郷をどう語るのか?文章でそれとなく波郷の句を表現しようと考えられたわけです。たとえば、松山から上京したばかりの若い頃の心の葛藤を描く第一章では、主人公が見る夢の描写が最後の方に出てきます。

誰か知らない人と一緒に秬(きび)を燃やしていた。(中略)一面に燃えさかる火のなかに、健康そのもののような緑色のいなごが、秬(きび)の茎に止まっているのだった。(助けなければ)と思った時、いなごが飛び立ち、拡げた内側の透明な翅にぱーっと火が移り、眩く輝いて消えた。

この文章は明らかに、初めて「馬酔木」の巻頭を飾った名句

秬(きび)焚きや 青きいなごを火に見たり

を下敷きにしています。(いなごは漢字なのですが、難しい字で探せませんでしたm(__)m)
 こんな具合で読者が文章を読みつつ波郷の句を掘り起こしていかねばならないわけです。だから私もそれっぽい文章があるとすぐ波郷全集をひっくり返して、という作業をえんえん続けております。ようやく半分読み終わりましたが、見逃している句があるのではと思うと後ろ髪引かれる思いで前に進まねばならず、結構苦痛になってきております(T_T)。著作権の関係もあるので、これ以上文章を引用するわけにもいきませんが、私が見つけた句を第八章まで掲げておきますので興味ある方は探してみてください。私が見逃した句を見つけられた方は是非ご教示くださいませ。ウォーリーをさがせ!状態ですね、ほんと。


第二章:桜の木の下で
大坂城ベッドの足にある春暁
(水原秋櫻子のもとでの修行時代、大坂での句会にお伴して)

第三章:朝の虹
あえかなる薔薇撰りおれば春の雷
(女性編集者へのほのかな想い)

翡翠(かわせみ)や露の青空映りそむ
(高尾山での句会の翌朝、もの思いから醒めて)

第四章:長い雨
英霊車さりたる街に懐手
(鬱々とした暗い戦時下の心の葛藤)

第五章:妹の上京
石竹やおん母小さくなりにけり
椎若葉東京に来て吾に会はぬか
兄妹に蚊香は一夜渦巻けり
蝉の朝愛憎は悉く我に還る
(これは章名のとおり、というか此の句のとおりに話を作っていった感じ)

第六章:おとし
雪降れり月食の汽車山に入り
(長期滞在した那須の旅館の女中とのほのかな交感を描く章。此の句は知らなかったがいい句ですねえ)

第七章:白き花散る
縁談を措き来し旅の春惜しむ
(縁談から逃げるように奥州路へ旅立って)

第八章:葭切(よしきり)の声
葭雀二人にされてゐたりけり
(下町の女性との縁談が心ならずも進んでいくうちにその女性を気に入っていく章)

 最後にこの場をお借りして4月15日に御亡くなりになられた藤田湘子(しょうし)氏に哀悼の意を捧げさせていただきます。氏は波郷のあとを受け継いで長く「馬酔木」の編集主幹をしておられました。合掌。

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2005/04/14

うーむ、知らん(-_-;)

 AMAZONからのメールで本屋大賞なる賞があるのを知りました。本屋が選ぶというのですから、売れ線のものばかりなんでしょうね。大賞受賞者の名前も全く知らなかったもので、指定サイトをのぞいてみたらーーー。

Amazon.co.jp: 本 / ジャンル別 / 文学・評論 / 文学賞受賞作家.

候補者全員全く知らんーーー(-_-;)

 時代に取り残されているのでせうか?それにしても受賞者の「ノスタルジーの魔術師」というのはいったい??劇的ビフォーアフターの建築士か、あんたは。

夜を徹して80キロを歩き通すという、高校生活最後の一大イベント「歩行祭」で起きた奇蹟を描く、永遠の青春小説

この惹句のにおいからすると、1時間以内で読めてしまえて、なーんだ、で終わりそうな予感が。今読みかけの本も2,3冊あるしなあ、移動図書館に並ぶ日を待つかな。

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2005/04/01

カフカよ静かに眠れ

 今日はエイプリル・フールで何を書いてもうそに思われてしまいそうですが、「オイ、悪い冗談はよせ!」というようなメールがAMAZONより届いてました(涙。日付は3月30日になってるので嘘ではなさそう。

Kafka on the Shore
Haruki Murakami
The Harvill Press 2005-01-06


by G-Tools

 先日の記事で12月に予約して1月に届いてるはずの村上春樹の「海辺のカフカ」の英訳本「Kafka On The Shore」がまだ届いていないので問い合わせ中、と書いたのですが、その返事が来たわけです。内容は

今のところ入荷の予定がありません。でもって、キャンセルさせていただきました。ご了承ください。ただしその商品に代わるお勧めアイテムは提供できますよ。さっさと注文しなさい。

という次第(-_-;)。うーん、慇懃無礼もここまで来るとあきれて抗議する気にもならんな。ちなみに私の注文したのはペイパーバックで、代替品とは予想がつくと思いますがハードカバー。持ち運びに便利なようにとわざわざペイパーバックを注文したのにデリカシーのかけらもありませんねえ。カバー画のセンスも悪いしなあ。
Kafka On The Shore

 ちなみに冒頭のペイパーバックの方のアフィリエイトを見ていただくと分かりますが、さっさと在庫切れに更新してありました。予約した私が手に入れられなかったのに何でこんなにレビューが載ってるんだと思ったら、取って付けたようにハードカバーより転載との注釈がーーー。

 でもって、あっさり諦めました。カフカよ静かに眠れ。そのうち町に出たら紀伊國屋か旭屋あたりで見つけてやるからな。

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2005/03/23

Kafka Not On Arrival!

murakami050322
 昨日の毎日新聞夕刊に英訳者ジェイ・ルービン氏が「村上春樹の普遍性」というエッセイを寄稿しておられました。その中でルービン氏は「ねじまき鳥クロニクル」に出てくる赤坂ナツメグの子供時代の話を引き合いに出し、村上春樹が最も魅力を放つ<瞬間>は国籍に関係なく世界中の人々が全く同じように反応できると語っておられます。ナツメグの思い出というのは

満州時代に父が動物園に勤めており、色々な動物のにおいが染み付いているのが好きだった。色々な動物の入り混じった匂いは毎日香水の配合を変えるみたいに変わるのでいつも膝の上に乗ってくんくん嗅いでいた。

というような内容です。
 何気ない日常をうまく文章の中で泳がせる術に長け、読者にどう語れば効果的かまで知り尽くしている村上氏のことだから、動物の匂いという強烈な官能性も計算づくのことだろうとルービン氏は推定しています。おそらくそのとおりでしょう。毎日のページ数をきっちりと決めて朝しか書かないと決めている人ですからね。

 それはそうと、あっと思い出した事がありました。自分でも忘れていてこんなこというのもなんですが、Kafka On The Shoreという記事を覚えておられる方はおられるでしょうか。「海辺のカフカ」の英訳本が1月に出るので楽しみ、と書いたのですが、

まだついていない!

ことにはっと気が付いてしまいました(^_^;)。アマゾンで調べてみたらーー
「発送予定日1月7-9日未発送
なんじゃこりゃ。ただいま問い合わせ中。

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2005/02/03

The Great Gatsby

華麗なるギャツビー
ジャック・クレイトン
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2004-02-20


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1920年代、ニューヨーク郊外ロング・アイランドに豪邸を構える、謎の富豪ジェイ・ギャツビー(ロバート・レッドフォード)。かつて貧しい青年だった彼は、恋人のデイジー(ミア・ファロー)に裏切られたことをバネに、財界でのし上がっていったのだった。そして、彼は、今は人妻となっているデイジーの心を再び取り戻したかに思えたが……。(AMAZON解説より)


great_gatsby さて、フィッツジェラルドネタを2つ続けたからにはやはりこの不朽の名作を取り上げなくてはいけませんっ(断定調。私の場合この作品は
1:映画で初めて知り、字幕をみても何て言ってるのかさっぱり分からず、
2:原作を知りたいと思い生意気にも英語版の文庫本(写真左)を買い、
3:出だしのあまりの難しさに即日本語版(写真右)を買って平行して読み進んでいった。
という一粒で3度おいしい(か?)思いをした作品です。大変な感銘を受け、村上氏をはじめいろいろな評論本も読みました。ちなみに映画の公開が1974年ですから私はまだ中学生だったはず。その頃にこんな難しい文章が読めるわけはありませんから映画は後年リバイバル時に見たんだと思います。村上春樹氏は高校生の頃にはバンバン原書を読んでいたそうで、フィッツジェラルドも片っ端から読んでおられたそうですから凄いなあと思いますね。

 「アメリカンドリームとその挫折」というテーマを元に語られることの多いこの作品ですが、自分にとっては

表意文字である英語でこれだけの美しい文章が書けるのだ

という驚きを覚えた初めての作品だったような気がします。といっても先ほど述べたように私には歯が立たない部分も多いのですが、いくつかの名場面は英語版が手垢で黒くなるほど読み返しました。
 ラストで「私(ギャツビーの友達、ニック・キャラウェイ)」がギャツビーの死後、主を無くした邸宅(夢破れた成り上がりものの象徴)から対岸の緑の灯(そんなことにはびくともしない上流階級の象徴)を見ながら語るモノローグは、いつ読んでも震えのくるくらいの名文で未だこれを超えるような文章には出会えていないです。
 それだけに和訳には非常な苦労があるようで、最後の一文だけとってみても野崎孝氏、村上春樹氏、研究者の宮脇俊文氏等の文章は微妙に異なっています。スコットのお墓の墓碑銘にもなっているこの文章、さてあなたならどう訳されますか?

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.

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2005/02/02

Tender Is The Night

tender_is_the_night  この写真は先日の記事で取り上げたスコット・フィッツジェラルドの「Tender Is The Night」のペーパーバックです。
 随分前に買ったものですが、とにかく